「日本書紀」は大海人皇子の行為を正当化しているのか(その2)

日本書紀」によれば、天智天皇崩御した後、出家して吉野に下っていた天智の弟である大海人皇子の元に、近江朝廷が皇子をなきものにしようとしているという情報がもたらされ、そのため「やむを得ず」挙兵したということになっている。


これは、大海人側から仕掛けたのではないとして、天武天皇の正当性を主張するのであるが、「書紀」編纂の中心人物は天武の子である舎人親王であり、素直に受け取ることができない、というのは良く言われるところ。しかし、舎人親王が都合の悪い歴史を改竄することができたのならば、なぜこれを改竄しなかったのかと疑問に思う点がある。


一つは山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が、蘇我入鹿に滅ぼされた記事。

643年11月1日、ついに蘇我入鹿巨勢徳多、土師娑婆連に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に 逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向臣國押に逮捕するように命ずるが断られる。

山背大兄王(ウィキペディア)

戦えば勝てたのに、人民のことを考えて滅ぶことを選んだ山背大兄王は愚かな人物であったと「書紀」は主張しているのだろうか?そうではないと俺は思う。


もう一つは、蘇我倉山田麻呂の記事。

その後、改新政府において右大臣に任命される。649年(大化5年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子中臣鎌足の陰謀であったとされている。

蘇我倉山田石川麻呂(ウィキペディア)


ウィキペディアにはこれだけしか書かれていないが、天皇の兵に包囲されそうになった山田麻呂は、山背大兄王同様、邸宅から脱出し、大和の山田寺に逃亡し、そこで息子の興志が襲撃軍を防ぐと言ったのを退け、

「人の臣たる者は、どうして君に逆らうことをくわだて、父に孝を失すべきであろうか。およそこの寺は、もともと自分のために造ったものではない。天皇のためをお祈りして造ったものである。今自分は日向に讒言されて、無謀に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉国に行っても、忠を忘れないことである。寺にやってきたのは、安らかに終りのときを迎えようと思ったまでである」
(『全訳注 日本書紀』 宇治谷孟 講談社

と語った。「無実」であるにもかかわらず、天皇の軍によって殺されようとしたとき、それでも天皇に逆らわず、死を受け入れたのである。この山田麻呂の行為を愚かなことだと「書紀」は主張しているのだろうか?


山背大兄王蘇我倉山田麻呂の行為が愚かなものではなく、むしろ、あるべき姿であると「書紀」が主張しているとするならば、それとは正反対の行為をした大海人皇子天武天皇)の行為は「書紀」の編纂者にとって、どのように見えていたのであろうか。というか、山背大兄王蘇我倉山田麻呂の記事は、壬申の乱の記事と無関係なものではなく、意識しているものと俺は考える。このあたり歴史学界ではどのように考えているのだろうか?俺は知らない。

気がついたら日記の更新を一ヶ月以上していなかった件について

何か急速に熱が冷めちゃったんですね。


年に何回かこういうことあるんだけれど、今回は、書くのをサボっただけじゃなくて、読むほうも、一応はてなブックマーク注目エントリーはRSSリーダーでタイトルだけ見ているけど、本文を読んでみようという気が起きないし、ブックマークもほとんどしてないし。


何でそうなったかというと、一言でいえば「つまらない」ということなんだけれど、これはあくまで個人的な感想。何で「つまらない」と感じるのかは自分でも良くわからない。


でも、まあ、今のところブログを止める気もないんで、ぼちぼちと、あまり反応がないけれどトンデモ歴史ネタを中心に書いていくつもり。

大友皇子は天皇に即位したのか(「日本書紀」は大海人皇子の行為を正当化しているのか)

壬申の乱の敗者である大友皇子は「日本書紀」では天皇に即位したとは書かれていない。だが、天皇に即位したという説が古くからある。現在では、即位していないという説が有力だが、即位説も根強くあり、現在も論争になっている。


俺は「非即位説」。(ちなみに、つい最近ウィキペディアを読むまで、即位説が「定説」なのだと思い込んでいて、その「定説」に疑問を持つという勘違いをしていたのだが)


詳細はウィキペディアに書いてある。
大友皇子即位説(ウィキペディア)

これには、この内戦が大化改新とともに編纂当時の「現代」を作り出した重要な事件であるという認識が働いていたと思われる。その際には、現天皇の系譜を正統化しようという動機もあったであろう。『書紀』の編者を率いたのは舎人親王で天武の子、完成時の元正天皇は天武の孫で、編纂期間中を通じて皇位は天武系が占めていた。そのため、天武天皇咎めるような事実を記さなかった可能性が高い。政権が望まない事実を削除したことは後続の『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗が少なかったと思われる。

即位説の背景には、時の権力者が自分たちに都合の良いように歴史を歪曲したという考えがある。聖徳太子非実在説と同じく「陰謀論」の仲間。

また、『書紀』の内容が信頼できないことからは、真偽不明という結論は導けても、そこから直ちに『書紀』の記述の反対が真実だとか、論者の想像が真実だとかいう結論は導けない。書紀の記述に信をおかず、同時に大友皇子の即位を認めない説も可能である。即位説を積極的に主張するためには、別の材料が必要となる。

このウィキペディアの指摘は至極尤もなものだ。


で、ウィキペディアには書いていないけれど、俺が最も気になること。それは、『日本書紀』は本当に壬申の乱における天武天皇大海人皇子)の行為を正当化しているのかということ。定説はどうなのか俺は知らないけれど、それが当然だと思っている人は大勢いる。しかし、疑問に思うことがある。


そもそも「天皇」の正当性とは何かという基本的な問題。最も重要なのは天照大神の子孫だということ。天武天皇はその条件をクリアしている(それを疑う説もあるけれど)。「三種の神器」については、この時代の詳細は不明。その他にも、時代によって様々な条件があったのだろうけれど、絶対的なものだったとも思えない。天皇は清廉潔白な人でなければならないとか、正しい行いをしなければ天皇になれないとか、そんな条件はなかったように思われる。天皇に即位したことが天皇の正当性を保証していると言ってもいいかもしれない。良い天皇、悪い天皇という評価はあっても天皇天皇。そして天皇である限り、臣下は忠節を尽くさなければならない。そういう考えに立てば、別に天皇の行為を正当化する必要もない。


で、そういう目で見れば、大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻した「逆臣」。そして、そのことは「日本書紀」を普通に読めば読み取れること。都合が悪いのであれば、そのこと自体を歴史(公的な記録)から抹消してしまえば良かったはずだ。それは記憶に新しい出来事なので不可能だったという考えもあるかもしれないけれど。しかし、「逆臣」であっても、「天皇」に即位したのであるから、それで天皇の正当性は保証されているのだと考えることだってできる。そうであれば、壬申の乱での大海人皇子の行為を、「日本書紀」で正当化する必要などないのであって、正当化しているように見えるのであれば、それは、正当化しているはずだという思い込みから、そう見えてしまうのであって、違う視点から見れば、正当化どころか、大海人皇子の行為は褒められたものではないと、「日本書紀」は包み隠さず記し、そうであっても天皇天皇であると主張しているのではないのかというのが、俺のトンデモ歴史観