ウナギの消費量

ここんところウナギに関することばっかり書いてるが、俺はここ数年ウナギを食べていない。資源を守るためではなくて家計の事情である。とはいえ、そう食べたいとも思わない。ウナギが嫌いというわけではなく大好きだ。それなのに禁断症状が出ないのは、ウナギの蒲焼が食欲をそそるのは匂いによるところが大きいからではないかと思う。だからスーパーでウナギを見ても特に何とも思わないのだろう。


ところでウナギに関して、最近調べて驚いたのがウナギの消費量。
国産ウナギの安全性と品質について

 日本の養殖鰻生産量は、最盛期には約4万トンありましたが、ここ数年は、2万トンから2万2千トンで推移しています。
 一方、外国の主な鰻生産国は、中国、台湾で、平成12年には両国合わせて13万トン以上の輸入がありました。
 日本の鰻消費量に係る統計はありませんが、日本の生産量と外国からの輸入量の合計を日本における鰻の年間消費量と推定しています。
 平成23年の日本の生産量は約2万2千トン、中国、台湾等からの輸入量が約3万4千トンとなっており、その合計は約5万6千トンで、日本の鰻生産量のシェアは約4割となっています。


まず「日本の鰻消費量に係る統計はありません」を見て「無いのかよ!」と驚いた。ただし「日本の生産量と外国からの輸入量の合計」を日本のウナギ消費量と推定するのは妥当だろう。ウナギを加工して再輸出とかあまり無いだろうから。


で、その「消費量」だが平成12年がピークだ。今はその3分の1に過ぎないということに驚く。


さらに驚くのがグラフの左端の昭和60年よりも「消費量が少ない」ということだ。




最近ネットでウナギの資源問題が話題になることが多い。そこで槍玉に挙げられるは量販店と牛丼チェーンである。今日見た記事もそんな感じ。
ウナギを食べ尽くすのではなく、資源回復を - Togetter


ところが量販店はともかく、牛丼チェーンが鰻丼を始めたのは2007年からだ。

 競い合うのは、外食業界最大手のゼンショーが運営する「すき家」と、老舗の「吉野家」。

 両社は2007年から毎年、6月になると、うな丼を提供している。最も需要が高まる7月後半の土用の丑の日頃までの期間限定商品だ。

価格高騰でもやる!もはや夏の風物詩 すき家と吉野家のうな丼合戦|inside Enterprise|ダイヤモンド・オンライン


だから「牛丼チェーンは鰻丼を売り続けても構わない」と言いたいわけではないけれど、鰻の生産量の低下に占める牛丼チェーンの責任割合はそれほど大きくないように思われる。


無論、今後のウナギ消費量における牛丼チェーンのシェアが増加するだろうと予想すれば批判は妥当だともいえるけれど(ちなみに現時点におけるシェアがどのくらいなのかは知らない)。



次に量販店だが、平成12年にピークを迎えたウナギ消費量における量販店のシェアは高かっただろうと思う(統計を見たわけではないけれど)。まあ、当時も俺は滅多に食わなかった(食えなかった)わけだが…


ただ、内訳を見ると平成12年の国内生産量は平成10年と11年の生産量よりは多いように見えるが、それ以前の生産量より少ない。もちろん、その分輸入が多いということであり、台湾・中国でのウナギ資源の枯渇の原因と推定することはできる。


しかし、どうも感覚的に不思議な気持ちになるのが、国内生産量が平成よりも昭和の方が多かったこと。さらに輸入を含めても現在よりも昭和の方が消費量が多かったということ。


主に量販店と専門店を通じて消費されたのだろう。だが当時の量販店でウナギは現在よりも幅を利かせていたのだろうか?ちょっとそこのところがわからない。


一方、専門店の方もわからない。今よりも多く人々は鰻専門店で食べていたということだろうか?


俺にはそんな記憶全くないのだが。それは俺んちが貧しかったからなのか?中流だと思っていたんだが。


(まあ、年に一度くらいはデパートの食堂的なところで食べていたかもしれない。その程度のことが年間消費量を押し上げることになっているんだろうか?)


(何かこの問題でスーパーや牛丼屋批判する人の中に「自分は専門店で月に一度くらいしか食べていないから悪くない」みたいな人が紛れ込んでくるような予感がするんですよねえ)

スーパーがウナギを値下げしたと怒ってる人がいるみたいだけれど

それって流通コストを引き下げたとか利幅を抑えたって話ですよね。


それで今年の生産量が増える→うなぎ資源が枯渇するって話にはならないでしょう。違いますかね?


怒るんならアフリカ産の輸入を開始するとかに怒るべきじゃないんだろうか?

線路は直線に見えるのか?

なぜ直線は真っ直ぐに見えるのか? - 「で、みちアキはどうするの?」

この「"直線"の見え方」は人間だけのものかも知れません。ぼくらが線路の上に立つ時、2本のレールは真っ直ぐ延びて遠方で合わさるように見える。じゃあぼくらの後ろには、前のほうから真っ直ぐ延びたレールはそのままどんどん広がってるかっていうと、そうじゃないですよね。やっぱり後ろでもレールは遠方で合わさってるのじゃないか。そんな想像をします。

長いこと直線の線路を見ていないのだが、直線の線路って真っ直ぐに見えるものなんだろうか?


個人的には運転席背後の窓から前を見てて何でこの電車がレールの上を走っていけるんだろうと不思議な感覚に襲われたという子供の頃の遠い記憶がある。遠近法の感覚は身につけていたはずなんだが、それでも不思議だった。

善の強制

「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ - モジログ

<「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ>

というのは全くもってその通りなんだけど。


しかし「福祉のために税金払うのは嫌だ」といったら、許してもらえるなんてことは日本はもちろん、アメリカやヨーロッパその他の民主主義国家において有り得ないことではなかろうか?


では、ナチスと現在の民主主義国家の違いは何か?


「今の民主主義国家の善は本物の善で、ナチスの善は本物の善ではない」ということを言いたげな人もいる模様だけれど、俺は違うと思う。


それでは違いは何かというと、悲しいかな、俺はナチスに詳しいというわけではない。


ただ、間違っているかもしれないが、思うのは、ナチスがやったのは「善を基準にした国家による国民の序列化」だったのではないかと考えている。


すなわち「善=ナチスの活動」に積極的に協力するのが良き国民であり、消極的・非協力的な国民と区別される。


そういう点が違うのではないだろうか?

お気の毒だとは思うが

「人命救助して罰金1万8000円」を神奈川県警に聞いてみた : この世に家がある限り

神奈川県苦情センターの窓口と話をしたそうである。
そして、私が危惧していた通りのことが起こった。
はっきり、言われたそうである。
「理由はともあれ、放置したあなたが悪いから、払え。
文句があるなら。裁判で戦いましょう」

これは正論ではなかろうか?裁判こそが白黒決着をつけるものである。


しかし、実際のところは裁判をやるには金と時間がかかる。結果として泣き寝入りになる。


俺の大家とのトラブルも泣き寝入りである(向こうはそう考えてないどころか自分が泣き寝入りしたと思っているんだろうが…)


残念ながら自分が正しいと思うことは裁判で決着をつけるか、泣き寝入りをするかの二者択一である。


普段の生活ではそういう選択を考える場面に遭遇することは滅多に無い。だが法治国家ではそれが現実だ。


(裁量を問題にしているようだけれど、裁判無しで決着つけるにはそれこそ水戸黄門のような裁量をする人が必要になるだろう)


民間企業だと評判を恐れて裁判になる前に和解することもあるだろう。しかし役所相手だとそうはいかない。誤りを認めていないのならたとえ10円でも返却しないだろう。金の問題ではないからだ。返却するには「正当な理由」がなければならない。


警察官が個人的に「ミスっちゃったかな?」と思ったとしても、それをちゃんと納得のいく形で説明できなければならない。それができなければ、それはそれで問題になるだろう。


「被害者」にとっては知ったこっちゃない話だが、役所とはそういうものだし、そうでなければまずいという側面もあるのではないだろうか。