我々は正しい。我々が正しいことを訴えていれば人はついてくる・・・

我々は正しい。我々が正しいことを訴えていれば人はついてくる・・・: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


これまた頭が混乱する話。


「我々は正しい。我々が正しいことを訴えていれば人はついてくる・・・」


何かそういう発言をマイナスに捉えている話みたいになってるけれど、


本当に人がついてくるかはともかく、そういう信念を持つのが悪いことだとは思わない。


なぜなら、そういう信念を持っているならば、「正義を実現するためには嘘も許される」なんてことは考えないだろうし、人々はいつか我々の正しさに気付くはずだから、現在ついてきていない人を「愚民」などと罵ることもないだろうし、「本当はわかっているのに何らかの良からぬ理由でわからないふりをしているのだ」とも考えないだろうから。


ただし、これが「訴えていれば即座に人はついてくる」という話だと全く違ってくる。


「人はついてくる」といっても、それは10年後かもしれないし、100年後かもしれない。そう考えれば「現在人がついてこないのは、まだその時期ではないからだ」という考えになるだろう。そうであれば、「将来はともかく現時点においてベストなのは何か」という考えも浮かんでくるだろう。


また、「人がついてこないのは我々が間違っているからかもしれない」と考える余裕も生まれるだろう。「即座についてくる」と考えていてはそういう余裕は生まれにくい。


話に出てくる人は、人がついてくる時期について楽観的すぎたのだろう。そのゆえに現実的な対処を誤ったということだろう。もっともそれも一つの生き方であって、後悔しているようなことを言ってても、実はそうでもないのかもしれない。他人に迷惑かけてないならそれでもいいと思うし。


hamachan先生の脳裏に浮かんだのが「どの領域」の人なのか知らないが、俺が想像するところでは、その人達の信念は「我々は正しい。ついてこない奴は馬鹿か嘘つきだ」というものではないだろうか?

自分は正しい

上の記事を書いていて自分でも混乱してきた。というのも俺はドラッカーの以下の文章に大いに同意するからである。

 彼らは自らの教義が理性的であるとする。理性的な手段によって、自らの教義に意味のある働きをさせることができると主張する。彼らは、自らの教義の正しさは理性に照らして明白であるという。かくして理性主義のリベラリズムは、自らの教義を理性の力によってしか政治行動に移せないことになる。そして失敗する。

 一方において、彼らは反対論を認めることができない。絶対真理に対する反対だからである。他方、彼らは反対論と戦うこともできない。間違いは情報不足の結果にすぎないからである。彼らにとって絶対真理に対する反対は何かの間違いにすぎない。ヨーロッパ及びアメリカにおいて、一九二〇年代、三〇年代にはやった「インテリは左たらざるをえない」とのセリフほど、この間の事情を明らかにしているものはない。

(『イノベーターの条件』ダイヤモンド社

一方で、「我々は正しい。我々が正しいことを訴えていれば人はついてくる」という信念が悪いことだとは思わないのである。


その違いは「人はついてくる」の部分かもしれない。


「ついてくる」というのは「いつかついてくる」ということであって未来(即時であっても訴えた後になる)のことだが、絶対真理の場合は「ついてくる」ではなくて、過去も未来も一貫して「正しい」ことは存在していたのであり、それに気付かなかった過去の人は愚か者であり、訴えているのに理解しようとしない現在および未来の人も愚か者ということになるだろう。


「ついてくる」の場合は、人によって差があるのであり、訴えを聞いてすぐについてくる人もあれば、一生ついてこない人もいることになるだろう。時とともについてくる人の数が増えて多数派になったときに「ついてきた」ということになるわけで、今現在ついてきていない人は「敵」ではなくて将来「味方」になる可能性のある人だ。


ついてこない人を敵とみなすか、将来味方になる可能性のある人とみなすかでは、態度が全く違ってくるのではなかろうか?


正直、自分でもよくわからなくなってきた。もっと考えてみる。