上の記事を書いていて自分でも混乱してきた。というのも俺はドラッカーの以下の文章に大いに同意するからである。
彼らは自らの教義が理性的であるとする。理性的な手段によって、自らの教義に意味のある働きをさせることができると主張する。彼らは、自らの教義の正しさは理性に照らして明白であるという。かくして理性主義のリベラリズムは、自らの教義を理性の力によってしか政治行動に移せないことになる。そして失敗する。
一方において、彼らは反対論を認めることができない。絶対真理に対する反対だからである。他方、彼らは反対論と戦うこともできない。間違いは情報不足の結果にすぎないからである。彼らにとって絶対真理に対する反対は何かの間違いにすぎない。ヨーロッパ及びアメリカにおいて、一九二〇年代、三〇年代にはやった「インテリは左たらざるをえない」とのセリフほど、この間の事情を明らかにしているものはない。
(『イノベーターの条件』ダイヤモンド社)
一方で、「我々は正しい。我々が正しいことを訴えていれば人はついてくる」という信念が悪いことだとは思わないのである。
その違いは「人はついてくる」の部分かもしれない。
「ついてくる」というのは「いつかついてくる」ということであって未来(即時であっても訴えた後になる)のことだが、絶対真理の場合は「ついてくる」ではなくて、過去も未来も一貫して「正しい」ことは存在していたのであり、それに気付かなかった過去の人は愚か者であり、訴えているのに理解しようとしない現在および未来の人も愚か者ということになるだろう。
「ついてくる」の場合は、人によって差があるのであり、訴えを聞いてすぐについてくる人もあれば、一生ついてこない人もいることになるだろう。時とともについてくる人の数が増えて多数派になったときに「ついてきた」ということになるわけで、今現在ついてきていない人は「敵」ではなくて将来「味方」になる可能性のある人だ。
ついてこない人を敵とみなすか、将来味方になる可能性のある人とみなすかでは、態度が全く違ってくるのではなかろうか?
正直、自分でもよくわからなくなってきた。もっと考えてみる。