信長研究と歴史観(その2)

信長研究と歴史観 - 国家鮟鱇


今までに書いてきたことを踏まえて具体的な話を。素材は『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)より「信長の流通・都市政策は独自のものか(長澤伸樹)」。


(なお俺は「楽市楽座」について詳しくない。なぜなら一般歴史ファンの常として信長の戦争とか人事とか面白エピソードとか、そういったことには興味あっても経済政策にはあまり興味がないこと。また「楽市楽座」について研究するには『信長公記』などのいわゆる軍記物では不十分であって史料を集めるのが大変なこと。信長だけではなく他の大名の経済政策も調べて比較検討しなければならないこと。あと当然のことながら経済の知識も必要なこと等々。したがって事実関係については専門家の意見に従うしかない)


さて、この論文は冒頭に「楽市楽座令」および「関所撤廃」は

中学・高校の教科書で必ず取り上げられ、中世から近世への扉を開いた革新的な政策としてもよく知られている。

とあり、これらの経済政策を「進歩史観」の中で再検討しようとするものである。


ところで、

織田権力内部では信長以外に、柴田勝家など家臣が出したものがあるが、従来はこれらもすべて、信長の政策として一緒くたにされるなど、楽市楽座令は、あたかも信長が先鞭をつけたとか、彼独自の政策として扱われてきたが、実際のところはそうではない。

とある。この話は俺も前から知ってたけれど、信長独自の政策とされていたものが最近の研究でそうではないとわかったという意味で理解していた。ところがふと近代デジタルライブリーで検索してみたところ、そんなことは『戦国時代の武家法制』隈崎渡(昭和19)でとっくに指摘されていたことであった。しかもこれは信長独自の政策だとされているけれどそうではないという話ではなくてナチュラルに「之が設置の一例は」として今川氏真の例から始まっており、信長を特別視などしていない。安土城下の例に字数が割かれているけれども、これは史料が充実しているからというだけの理由であろうと思われ。長澤氏も

これらは戦前から多くの研究者が指摘してきた周知の事実である。

と書いている。ということは一体いつから「彼独自の政策として扱われてきた」のかが知りたいところだが、それについては書いてない。専門家は戦前から一貫して信長独自と考えていなかったが一般では信長独自と考えられていたというなら、よくある専門家と非専門家の認識のズレということだけれど、それでは「信長研究の最前線」というテーマに関係ないことであり、専門家においても信長独自という考えがあったのだろう。


で、次に最近の研究の成果では

これにより現在では、革命的性格という仰々しい評価は改められ、楽市楽座令は地域住民の要望をうけて出されるもので、戦国大名のめざす立場は、都市や市場の強固な支配や搾取ではなく、これを復興・保護することにあったという見方が主流となっている。

とある。ここに最近しきり主張される「信長は革命の英雄ではない」の「革命」とは進歩史観における「革命」のことだということがはっきり示されている。「楽市楽座」という新しい政策が実行されても、それが「進歩」に寄与していなければ革命ではないのだ。楽市楽座令などは現在でいうところの「流通革命」とやや大げさに言われる類のものであると思うんだけれど、そういう革命は革命ではないのだろう。


そしてもう一つ注目しなければならないのは、「戦国大名のめざす立場」が何であろうと、その結果として「進歩」があったのならば、評価されるべきものであろうと俺なんかは思うわけだけれど、楽市楽座令が何をもたらしたかについては言及されてない。ここで論じられているのは信長が「革命」を目指していたか否かということだろう。


また「信長独自」ではなくても、それが「革命」ならば、信長一人が英雄ではないにしても英雄の一人ということになると思われ、つまり信長独自ではないという話は、「信長だけが革命の英雄だったのか」という話であり、信長が目指したものが革命ではなかったという話は「信長は革命の英雄だったのか」という話であり、二つの問題が特に区別もなく論じられているように思われる。

信長研究と歴史観(その3)

信長は「革命の英雄」だったのか、なかったのか?という場合、当然「革命」とは何かということをはっきりさせなければならない。


これがマルクス主義進歩史観による「革命」だというなら話はわかりやすい。「信長は中世を終わらせ近世を作ったのか」という話になる(正確には現在「中世」といわれてる時代はマルクス主義の歴史家によって「古代」と定義され「古代を終わらせて中世に移行した」という説があったということは前に書いた)。


実際、「信長は革命の英雄ではなかった」という話においては、表面的にはこのマルクス主義進歩史観的な話をしているように見える。ところが必ずしもそういう話をしているのではないようにも見えてややこしい。


結局のところ何が言いたいのか?単に「信長は革命の英雄ではなかった」という刺激的な言葉を使いたいだけなんじゃないか?とすら思えてくる。


楽市楽座は信長の独創ではなかった。だから何だというのだ?それは「信長は発明者ではなかった」であって、なぜそれが「信長は革命者ではなかった」ことになるのか俺には理解できない。発明者でなければ革命者ではないのか?そんな馬鹿な。


進歩史観的な意味で)「革命」の意思を持っていなければ「革命者」ではないのか?それはそう言えるかもしれない。でも意思があろうがなかろうが結果的に時代を変換させる役割を果たしたのなら(進歩史観的な意味で)そこに意義を認めるべきことではないのか?(進歩史観的な意味で)それこそが重要なことなのではないのか?信長が「革命」の意思を持っていたかいなかったかがそんなに重要な事だろうか?


なお金子拓氏はこう主張する。

 最後にもう一度題に戻ろう。「信長は革命者ではなかったのか」。いままで「革命者」の要素として考えられてきたようなことがらからは、かならずしもそうはいえなくなってきている。しかしながら、秀吉と家康によって実現した中世から近世へ、戦国乱世から統一政権へという時代の変革をもたらしたという意味では、歴史という大きな川の流れに埋もれさせてはいけない「革命者」であった。体のいい逃げ口上かもしれないが、いまのところはそう考えるほかないのである。

信長は革命者ではなかったのか


これはまあ俺の考えに近い。しかし俺が思うに、信長は天下統一を達成できなかったけれども、信長の支配した領域は広大なものだった。信長が何を考えていたかに関わらず、そのこと自体が日本を大きく変えることになったのは疑いのないところであろう。であるならば、信長がそういう意味で「革命者」だとされる最大の要素は「信長が強大だったから」ということに尽きる。いくら革命の理念を持ち合わせていても、その範囲が村程度であったなら「日本を大きく変えること」などできない。信長が強大だったから、その後の日本は変わったのだ


秀吉や家康が信長の理念を継承したのかは、それはそれで考えてみる必要があろう。ただ言えるのは、彼らが信長が支配した領域を継承したということだ。信長が本能寺で倒れたあと、いろいろごたごたはあったにせよ、信長以前の状態には戻らなかった。つまり日本は変化したのだ。それこそが「信長の革命」であろう。ただそれを「革命」と呼ぶのが相応しいかといえば、どうかと思う。


要は「巨大な権力が登場すれば世の中はそれがどういう方向なのかはともかく変化する」のであり、何も考えてない人物が「天下」を取ったとしても何らかの変化はあるでしょと思うのである。そしてそれを「あるべき方向への必然的変化」とごじつけてみることもそんなに難しくはないだろうと思ったりするのである。

信長研究と歴史観(その4)

結局のところ進歩史観唯物史観なんてこじつけでしょって俺は思ってる。


そりゃまあ普遍主義を否定するっていっても同じ人類なんだから、イヌやネコよりも共通点はあるのであって、似たようなところがあるのは間違いない。


それに日本は極東の島国とはいっても完全に孤立していたわけではなくて、中国と交流があったわけで、その中国はヨーロッパと地続きなのだ。何らかの形で影響が及んでいることもあるだろう。そして何より織豊時代においてはヨーロッパと直接交流があったのだ。


いわゆる「中世」から「近世」への移行は、日本独自の事情もあったかもしれないけれど、ヨーロッパとの接触の影響も大きかったと思う。アメリカでIT革命が起きれば日本にもIT革命が起きる。日本という孤立した地域が独自に歴史の発展法則に従って革命が起きたというわけではないと俺は思いますね。個人的には鉄砲伝来というのは相当な影響があったと思う。またキリスト教の伝来も従来の宗教観に影響を与えたかもしれない。ここのところはもっと考えてみなけりゃいけないけど。


ヨーロッパの歴史と日本の歴史に似たところがあるのは、そうかもしれないけれども、似ている理由は普遍的な歴史の発展法則なんてものによるのではないでしょう。にもかかわらず一般法則とやらで説明しようとしたらこじつけるしかない。根本がこじつけなんだから細部もこじつけである。信長が革命児だというのも信長は革命児ではないというのも、元々こじつけの産物であるからして、それっぽい事実を見つけてくればどっちにすることも割と簡単なことであろう。信長が評判を気にしていたから「保守的」だなんて、そんなこと言ってたら、大抵の人間は革命児でもあり非革命児でもある。再び信長が革命児と呼ばれることも十分ありえる。でもそんなことに意味があるだろうか?


信長は戦前は忠臣として評価された。戦後は革命児。それが発展して遂には天皇を廃して王になろうとしてたとまで言われるようになった。つい10年ほど前にはこんな説が流行していたのだ。そして今は革命児ではなかったと。新史料の発見や研究の進展で人物像が変わるということはありえるけれども、信長の人物像の変遷はそういうことで説明するよりも、別の要因の方が大きいと思いますね。