構造主義

俺は学がないから、難しいこと言われても理解不能なので、理論で考えるよりも、何となくそれっておかしくね?って勘で物事を考える適当な人間なんで、勘違いしてるかもしれないけど。

ソシュールは、さまざまな言語をくらべながら分析することを生業とする比較言語学者でした。研究を進めているうちに、彼は単語が指し示す対象の範囲が言語によって微妙にずれることをどう説明すればよいか、という問題にぶつかります。つまりフランス語で「ムートン(mouton)」は生きている羊と羊肉の双方を指すのに対して、これとよく似た英語の単語「マトン(mutton)」は羊肉のことしか意味しません。生きている羊を意味するのは、英語では別の単語「シープ(sheep)」です。
ここから、ソシュールは、存在する「もの」、その「もの」に与えられる「意味」、そしてその「意味」を指し示す「言葉」、この三者のつながりは恣意的なものにすぎない、という独創的な見解にたどりつきます。ぼくらは何をするにも言葉を使っていますから、これはつまり「真実はわからない」ということです。こんな発想を「言語論的転回」と呼びます。

(『歴史学ってなんだ?』小田中直樹 PHP新書)


「独創的」なんだそうだけど、実生活上でも、そういうことは良くあることなんで、なるほどと納得してしまう。旧約聖書にある「初めに言葉ありき」というのは、このことを考えるに、まさにうってつけの題材である(ように思える)。で、この「初めに言葉ありき」をどう解釈すべきなのかという問題だけど、究極的には「初めに言葉ありき」というのは「初めに言葉ありき」という意味なんだよ。ってことになるんじゃなかろうか?(厳密に言えば翻訳文でなく原文ということになるけど)


それに対して、言葉を言葉通りに受け取るとこうなるんだというのは、話がかみ合ってなさげ。これまた、この問題を考えるのに興味深いこと(かもね)。