問題は複雑だ。

日経BPのコラム
『これでいいのか? ブログ世界の理不尽な未成熟さ』(花岡信昭氏)
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/y/02/


言及しているブログをざっと読んでみた。刺激的な記事の割には、言及しているブログの数は少ない。
正直言って、どれも不満の残るものであった。
それは書き手の問題というよりも、この問題があまりにも大きく、複雑な問題であるからだと思う。
それに加えて、問題提起をした花岡氏が、それをするのにふさわしい人物であったのかということが、さらに問題を複雑にしている。


一つ一つの要素を分解して、細かく分析していかなければならないが、それをするのは相当な労力を必要とするだろう。そこまでする気力はない。


手っ取り早く片付けるのなら、「花岡氏にはそれを言う資格はない」と済ましてしまうこともできる。
この問題は、これ以降も発生することは必然であると思われるから、もっとそれを言うに相応しい人が発言したときに、あらためて議論したほうが、余計な要素を省くことができるので、良いかとも思う。


というわけで、この問題を総合的に論ずるのは、少なくとも俺には能力的に無理なことだから、気になることを断片的に書いておく。
断片的なので、言いたいことを十分に伝えられないことは承知しているが、そうしないといつまでたっても何も書けなくなってしまう。


既存メディアとブログを同列に論じるのは無理
ブログはネット環境さえあれば、誰でも気軽に書けるメディアである。一方、既存メディアは誰もが発言できるものではない。新聞記者になるには入社試験をパスすることが必要だし、記者になっても編集者のチェックをパスしなければ記事にはならない。これは各メディアの性質によるものであって、将来もそうであるという保障はない。
現状では、何段階もチェックされている既存メディアのほうが、全体的に見れば「信頼度」は高い。(もちろん個別に見ればそうではないケースはいくらでもある。)それは社会的にも認知されている「一般常識」であると思われる。そういう社会にあって、「信頼度」の高い既存メディアが、信頼性に欠ける報道をした場合と、ブログが怪しげな情報を流した場合とを同列に論じることはできない。
ブログが現在のように、誰でも気軽に書けるものであることを続ける以上は、既存メディアよりも「信頼度」が劣ることは避けられない。
解決策があるとすれば、現状のブログのあり方を根本的に変えることが必要になるが、それが望ましいことであるのか真剣に考える必要がある。しかし、俺は変える必要はないと思う(差別的・中傷的な書き込みを規制することを慎重に模索する必要はあるかもしれないが)。
個人的には、ブログが既存メディア並の「信頼度」を獲得する必要性を感じない。それはブログが既存メディアと同じになってしまうということであって、失うものが多すぎると思う。その点で花岡氏に同意できないが、同時に既存メディアも似たようなものであるとする反論にも同意できない。
繰り返すが、「信頼度」の点では、例外はあっても(かなりあるのは事実だが)、それでも全体的には既存メディアの方がチェック機能のある分上回る。そこを間違うと「カルト」にはまってしまう危険がある。


『トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編』
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/matome.htm
これは歴史学の話であり、メディアにはここまで学問的な厳密さはない。とはいえ、総合的に見ればメディアであってもプロとアマの違いは存在する。プロは「信頼度」が高い分、より厳しくチェックされねばならない。だが、アマのたわ言を厳しくチェックしていたらきりが無い。
であるからして、ブログは「それなりの価値」しかない。また「それなりの価値」しかないということを認識すべきである。
もちろんブログであっても、中には優れたものも多い。それを見分ける目が必要になる。だが、自分では見分ける目を持っていると思っていながら「トンデモ」の世界に入り浸っている人も多い。もちろん既存メディアにも、おかしなものは多い。それを見分ける目が必要になる。じゃあ同じじゃないかってことになるんだけど、このあたり非常に複雑で、難しい。よくあるインテリが「カルト」信者になってしまうパターンの理由がこのへんにあると思われる。


「既存メディア」と言ってもピンかキリまである。
一口に既存メディアと言っても、例えば新聞では、読売・朝日・毎日・産経のような一般紙や日経のような経済紙、夕刊フジやゲンダイのような夕刊紙。さらに東スポまで幅広い。また赤旗のようなイデオロギー性のあることを自他共に認めているものまである。読売・朝日等と夕刊フジ等を同列に扱うことはできないし、それは全員とは言わないまでも多くの人が認識しているはずである。また、テレビも報道番組とバラエティ番組を同列に扱うことはできないのも同様である。
また、読売・朝日・毎日・産経のような一般紙は「中立的・客観的」な報道が「建前」である。もちろん実際には朝日は左寄り、産経は右寄りであることは多くの人が知るところである。とはいえ、ある程度は抑止されている。朝日は偏向していると思う人は多いであろう(俺も思う)が、もし歯止めがなかったら、もっとすごいことになっているかもしれない(その可能性は高いと思う)。左巻きの人が、「朝日も産経も同じ」みたいなことを言っているのをたまに見かけるが、立場が違えばそう見えるのだろう。産経に関しても同じことが言える。
朝日は「911アメリカの陰謀」なんて噂を本当は書きたいかもしれない。産経は産経で、ネット上の騒動を本当は書きたかったのかもしれない。だが、さすがにそれは大新聞として根拠もなく書けないことである(とはいえ、たまにやらかすけど)。
しかし、夕刊紙になると、かなり緩くなる。東スポはご存知の通り。それでも訴訟リスク等があるので、ある程度の歯止めはある。
一口に「既存メディア」といっても様々である。わざわざ言うまでもないことだが重要なことである。


「ブログ」と言ってもピンかキリまである。
一方、ブログであるが、そもそもブログとは何か?ってややこしい話もあるのだが、一般的には現在主流の個人が運営するブログということになるわけだが、それは誰でも気軽に始めることができるものである。
誰でも気軽に始めることはできるが、記事を書いたからといって読んでもらえるとは限らない。1日に数万のアクセスを誇るブログもあれば、数件〜数十件のものまで千差万別である。後者のほうが圧倒的に多い。しかし物理的に言えば人気ブログも過疎ブログも1000文字の記事を書けば、同じ1000文字の記事である。アルファなブログなら、ある程度名前が知られているが、それ以外のものが、どの程度の影響力があるのか知るのは困難である。大新聞と小新聞の違いは明らかであるが、ブログの場合、その違いを見分けにくい。
怪しげな情報に便乗するブログが100件あったとしても、それが弱小ブログの集合体であった場合には、アルファなブログ1件と比べて影響力はたかが知れたものである。しかしちょっと見た目では、前者のほうが大勢を占めているような錯覚を起こすこともある。注意しなければならない。


疲れた。続けるかもしれないし、続けないかもしれない。