最近の若者は

「最近の若者は」というのは、大昔から言われ続けてきた。その起源が、「エジプトの壁画」だとか、「ヒエログリフ」だとか、一部で話題になっているけど、それはこの際関係ない。
そして、よくある類の「最近の若者は」という批判への批判でもない。でも一応書いておくと、年長者が「最近の若者は」という場合、それは自分達が若い頃の時代を良として、そうでない最近の若者を批判するのだ。要するに世代間のギャップであるから、その若者が年をとれば、また自分達の時代を良として、年少者を批判するのだ。(それともう一つ、自分の若い頃を実際はそうでなかったのに美化している場合もある)


俺が若者の時、年長者から聞いた「最近の若者」批判は、たとえば、「自分の若かった頃は生活が苦しかったので子供も働いたが、今は豊になったので、子供は働かなくてもいい時代になった。良いことではあるが、甘やかされすぎているのは問題だ」とか、「自分の若かった頃は親にくちごたえなどできなかった。それなのに最近の若者ときたら」とか、「自分の若かった頃そんな服装をしていたら不良に見られた。それなのに最近の若者ときたら」とか、まあそんな感じ。


それは確かにその通り。ただし、こっちにも言い分があって、それは要するに「昔は昔、今は今、時代は変わった」ということだ。


で、ここからが本題なのだけど、上に書いたようなことは、年長者と若者の育った環境の違いによって生じるものだ。ところが、俺は最近の若者に対して「最近の若者は」と言おうと思っても、何を言えばいいのか思いつかない。まあ探せばある。良くいわれる「電車内での飲食」とか「床に座り込む」とかだ。これは俺の時代には無かった(全く無かったかといえばそうでもないような)(あと、こっそり言っておくけど「最近の若者はエロに接する機会に恵まれている」というのもある…)。


しかし、俺が若かった頃、俺くらいの年齢の人が言っていたほどのインパクトはない。というのはつまり世の中が20〜30年前と今とで、それより前の20〜30年より変化が少なかったということじゃなかろうかと思う。


俺の親の世代と俺の世代には大きな差がある。まず何といっても戦争があった。そして文明の発達が著しかった。テレビ、洗濯機、冷蔵庫(三種の神器)や、電器炊飯器、掃除機などの家電製品、それに自動車。アメリカ文化の大量流入。農村人口の減少。そして大家族から核家族へ。少子化による兄弟の減少。それに比べれば、俺と最近の若者との差は小さい。レコードがCDになり、ビデオがDVDになったってたかが知れている。テレビゲームは発達したが、テレビゲーム自体は存在した。
あえて言えば「最近の若者は、上の世代とのギャップが小さい」というのが、俺の「最近の若者論」ということになろう。


ところがだ。それなら「最近の若者」的な批判が減少しても良さそうなものなんだけど、相変わらず結構ある。まあ、結構あるといっても、統計を取ったわけではないので、昔と比べて本当はどうなのかはわからない。単にそう思うだけ。少なくともネット上にはいっぱいある。
で、その若者批判なんだけど、どうも俺が若い頃に上の世代に言われたことと同じなのがいっぱいある。これが不思議。「最近の若者は」というのは大昔から言われてきたのだけど、「最近の若者は〜だ」の「〜だ」というのが変わらないということはどういうことだろう?
最近見かけた典型的なのが「最近の若者は政治に無関心で外国がするような反対デモをしない」というもの。いや俺も最近の若者じゃないけどデモに参加したことないんですけど?まあこれは特殊すぎるか…


こういうのをどう解釈したらいいのだろう?考えられるのは、これを言っているのが俺より上の世代だということ。つまり俺も若者に含まれている。これならば辻褄があう。高齢化の進む田舎の村では60過ぎても若造扱いなんだそうな。あと政治の世界もオッサンが若手と言われてる。今は日本全体が高齢化している。4人に1人が60歳以上だ。ということは、もしかしたら俺が60になってもまだ若者扱いされている可能性さえあるかもしれない。あなおそろしや。


もう一つは、「最近の若者は〜だ」というのが定型化している可能性。現実を見ないで、深く考えず、とりあえず上の世代が言っていたことを、自分も真似して使っている可能性。この可能性も捨てがたい。しかしそれだとちょっと馬鹿っぽい。


あともう一つ、本当は「昔の俺は」と言うべきところを、「俺たちの世代は」と言っている可能性。実はその世代にもいっぱい同じような人がいたにもかかわらず、自分本位で考えていれば、そうなる場合があるかもしれない。これは結構あるかも。