自然とは何か?

引き続き、桑木厳翼「歴史哲学の問題」からの抜粋

カントの考える所によると、我々は自然を造るものである、吾々も一個の自然物と見れば無論自然界の一産物であるが、併し自然を認識し自然に関する科学を組織するという立場から言えば、其場合には認識者たる我々は認識される自然を認識し得るような形に組み立てて行くのである、というのは、認識し得る自然というのは皆主観的の法則に依って統一せられているものであって、此統一以外の自然それ自身は認識に対しては何等の関係を持って居らない。


で、ここから先は「歴史哲学」とは関係ない話。


前から疑問に思っていたこと。
「自然界に存在しない」というような言葉をよく耳にするけど、「自然界に存在しない」と言ったって別に人間が超能力を使って「無」から「有」を生み出すわけじゃなくて、自然界に存在するものを加工することによって「自然界に存在しない」ものが出来るのであって、しかもその加工する人間という生物も「自然界の一産物」なのであるから、結局「自然界に存在しない」ものとは、実は「自然界」のものであるのであって、蜂が蜂の巣を作るとかいったことと何等違いがないのではなかろうかと思ったりする。


しかし、それじゃ「自然界に存在する」ものと「自然界に存在しない」ものを区別する必要が無いのかといったら、もちろん区分する必要があるわけなんだけど、「自然界/非自然界」というのを、文字通りに解釈すると、誤解が生じるのではないかと思うのです。


以上のことを踏まえて、


鹿児島県薩摩川内市ではトンボを守るためにブラックバスを1300匹殺したらしい(余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋 – Blog)


を読んでみると、散人先生と鹿児島県川内市の対立の原因は、「守るべき自然環境とは何か」についての見解の相違であるわけだけど、その「自然環境」というものが、そもそも絶対的なものではないのであるから、どちらが間違っているというものではないのであって、どちらを選択するかという問題だと思うわけであります。


で、散人先生は「ブラックバスを目の敵にして撲滅(駆除)に躍起になっている人たち」を「自分たちは絶対的に正しいことをしているのだと狂信的に信じきっているから。」と糾弾しているわけですけど、それは散人先生の言い分であって、本当にそうなのかは俺には知る由もありません。しかしながら、そう断定的に決め付ける散人先生については、まさに、自分の主張が絶対的に正しいと思っている人に見えてしまうのであります。