認識論

俺の哲学に関する知識は、現役高校生よりも遥かに劣っていて、ブログで哲学的な記事があっても何のことやらわからないからスルーしているんだけど、たまにひょんなことから、興味深い話を目にすることがある。


俺の巡回しているブログに『うわづらをblogで』というのがあって、著作権の切れた資料を公開している。そこで、


桑木厳翼「歴史哲学の問題」


が公開されていたので読んでみた。といっても桑木厳翼という名前を前から知っていたわけではない。「歴史哲学の問題」というタイトルが興味深かったから。


(ちなみにこんな人)
桑木厳翼旧蔵資料(東京都立図書館)


明治43年といったら1910年だからおよそ100年前に書かれたものなのに、とても面白く、かつわかりやすい。で、「認識論」というものに興味が涌いたので、ウィキペディアの「認識論」の項目をついでに読んでみた。


一瞬わかったつもりになった気がしたけど、やっぱり俺には無理。


(追記)
桑木厳翼「歴史哲学の問題」より一部抜粋(旧字旧かなは改めた)

我々は之によって我々の有っている客観的知識の確実なることを論証する。而して斯ういう研究から段々と進んで行って、遂に客観的実在其物に関する研究即ち形而上学を組織することが出来るかも知れないが、併ながら其形而上学は昔から言う形而上学の如く、全然超越的な、純粋の客観的実在の学問ではない、何等か主観的の性質を含んでいる客観、何等かの方法で超越的になった実在の学問とならなければならぬ。均しく之を形而上学と云う名で呼ぶが、併ながら其形而上学は既に述べた如き独断的なものでなくして批評的のものである、即ち其基礎が既に前に述べた知識学に存在しているものである。其故に哲学は分れて知識学及形而上学となるのであるが、併ながらまず形而上学を説くまでに、知識学に於て論及すべき点が沢山あるのである。

この辺とか、最近でもホットな話題になってるんじゃなかろうか?