福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その7)

我ながらくどいとは思うけどさ、「立国は私なり」の解釈があまりにもアレなんで、書かざるを得ない。


ここまで変な解釈がまかり通っているというのは、福沢諭吉自身に責任があるのかもしれない。しかし、文脈を考えれば正しく理解できるものであり、俺は理解できていると確信している。


「立国は私なり」で検索すると様々な解釈がある。一般人のはスルーして有名人のものだけでも結構ある。


検索でヒットした順に、まずは小林秀雄
哲学の私情は立国の公道: 竹林の国から

 「『痩我慢の説』は、『立国は私なり、公に非ず』という文句から始まっている。物事を考え詰めて行けば、福沢に言わせれば、『哲学流』に考えれば、一地方、一国のうちで身を立てるのが私情から発する如く、世界各国の立国も、各国民の私情に出ている事は明白な筈である。これは『自然の公道』ではなく、人生開闢以来の実情である。この実をまず確かめておかないから、忠君愛国などという美名に、惑わされるのである。」

小林秀雄は「立国は私なり」を部分的には正しく理解していると思われる。だが、福沢は

この実をまず確かめておかないから、忠君愛国などという美名に、惑わされるのである

などとは言っていない。

其これを主張することいよいよ盛なる者に附するに、忠君愛國等の名を以てして、國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ

と言っているのだ。小林は「不思議なれ」から「惑わされるのである」ということを読み取っているみたいだけれど、それなら、それに続く

故に、忠君愛國の文字は、哲學流に解すれば、純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては、之を稱して美徳と云はざるを得ず。

をどう解釈するのか?「云わざるを得ず」を消極的な承認と受け取っているのだろうか?だとしたらトンデモ解釈と云わざるを得ない。


「不思議」とは「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」(goo辞書)という意味だ。「美徳と云はざるを得ず」とは、「これを美徳と云わずして何と云おう」というような意味だ。


福沢諭吉は「忠君愛国」を積極的に承認しているのだ。
(もちろん「忠君愛国」と言ったって、戦時中の激烈な標語を意識しているわけではない。古今東西の人類は国を建設して王を立てそれに忠節を示したという話であり、その中でもとりわけ忠節を果たした人に対して「忠君愛国」だと評価したということだ。現在の日本人にはアレルギーがあるのかもしれないが、今でも世界中で普通にある認識だ。王ではなく民主的に選ばれた大統領であろうと同じことだ)


小林秀雄は続けて解説する。

 つまり、この「『哲学の私情は立国の公道』という明察を保持していなければ、公道は公認の美徳と化して人々を酔わせるかあるいは習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成り行きであり勢いであって、これに抵抗しないところに、人間の独立、私立があるわけがない。」この「私立」が「痩我慢」であって、「痩我慢は私情に発するであろうが、我慢である限り、単なる私情ではない。」つまり、「私情と公道との緊張関係の自覚であろう。福沢は其処に『私立』を見たのである。」

これが良く見かける「立国は私なり」の解釈だ。そりゃ福沢は「独立」について、別のところで言っているだろう。しかし、福沢は『痩我慢の説』でそんなことは一切言っていない。


逆に「痩我慢」の主義は「習慣的義務」であるべきだと言っているのだ。


でなければ、

 又、古來、士風の美を云へば、三河武士の右に出る者はある可らず。其人々に就て品評すれば、文に武に、智に勇に、おのおの長ずる所を殊にすれども、戰國割拠の時に當りて、徳川の旗下に屬し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にも、唯徳川家の主公あるを知て他を見ず、如何なる非運に際して辛苦を嘗るも、曾て落胆することなく、家の爲め主公の爲めとあれば、必敗必死を眼前に見て尚ほ勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるが如し。是即ち宗祖家康公が小身より起りて四方を經營し、遂に天下の大權を掌握したる所以にして、其家の開運は瘠我慢の賜なりと云ふ可し。

などど、三河武士の士風、徳川家の家風を賞賛するわけがない。三河武士が、立国は私にすぎないなどという哲学的思索をしていたとは考えられない。それは三河武士の気風というべきものである。福沢が小林秀雄のように考えていたのなら、賞賛などするわけがなく、批判したであろう。


(つづく)