福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その5)

正直飽きてきた。内田樹先生の記事へのブックマークは増える一方である。批判的なコメントはほとんど無いし、批判的な記事も無い。空しい。


というわけで、ちょっと趣向を変えてみる。


「痩我慢の説」で検索して見つけた記事に、
小林秀雄の読んだ本(二) 『福澤撰集』(承前)|freeml
というのがあった。


小林秀雄はこう書いているらしい。

「「哲學の私情は立國の公道」といふ明察を保持してゐなけれ
ば、公道は公認の美紱と化して人々を醉はせるか或は習慣的義
務と化して人々を引廻すのである。これは事の成行きであり勢
ひであつて、これに抵抗しないところに、人間の獨立、私立が
あるわけがない。」
(第五次全集、第十二巻、340頁)


ところが、俺が昨日から、この『痩我慢の説』を繰り返し読んできたところでは、福沢諭吉がそんんなことを言っているということは一切読み取れないのである。

 左れば、瘠我慢の一主義は、固より人の私情に出ることにして、冷淡なる數理より論ずるときは、殆んど児戯に等しと云はるるも、辯解に辭なきが如くなれども、世界古今の實際に於て、所謂國家なるものを目的に定めて、之を維持保存せんとする者は、此主義に由らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競爭して士氣を養ふたるも、此主義に由り、封建既に廢して一統の大日本帝國と爲り、更に眼界を廣くして、文明世界に獨立の体面を張らんとするも、此主義に由らざる可らず。故に人間社會の事物、今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の變遷こそある可けれ、百千年の後に至るまでも、一片の瘠我慢は立國の大本として之を重んじ、いよいよますます之を培養して、其原素の發達を助くること緊要なる可し。

福沢は「世界古今の實際に於て」「此主義に由らざるはなし」と言っている。日本の封建時代においてもそうであったし、維新後もまたそうあるべきだ。さらに「百千年の後に至るまでも」そうあるべきだと言っているのだ。


「行間」を読むという行為はあまり好きではないけれど、小林秀雄内田樹がそれをしているので、俺もしてみれば、福沢はむしろ逆に、これについて「哲学的」に考えるということを憂慮しているのだ。哲学は哲学、現実は現実なんである。


古今東西、痩我慢の主義はずっとあったのに、今これを害することがあると言っているのだ。それを

數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利

と言っているのだ。


ここからは小林秀雄が言うようなものは全く読み取れない。


小林秀雄ですらこうなのか(って俺は小林秀雄についてよく知らないんだけど)。


もうね、これって何なんでしょうね?長い文章じゃないし、旧字が読めないってのはあるかもしれないけれど、今の中学生や高校生でも、もっと正確な読解は可能だと思うんですけどね。学生時代成績優秀であったであろう人達が何でこんな理解をしてしまうんだと、それが不思議でしょうがない。おそらく余計な不純物が脳内にこびりついていて、それが邪魔しているんじゃないのかと、そう思わずにはいられませんね。