「立国は私なり。公に非ざるなり」の意味

 「立国は私なり。公に非ざるなり」とは、福沢諭吉晩年の著書「痩せ我慢の説」の冒頭に書かれた一文です。「政治家や官僚は国からお金を貰っているのだから、国家のために尽くし働くのは当然である。しかし一般の国民が、私立の会社や機関が、国家のために貢献しようと努力することこそ尊く、それがあってこそ国家は繁栄してゆく。つまり国を支えてゆくのは、志を持った国民一人ひとりである」と福沢は説いています。

【国際ビジネスマンの日本千思万考】「天は人の上に人を造らず」の意は「四民平等」にあらず、不満ばかり口にする国民への批判だ…今に通じる福沢諭吉「学問のすすめ」(1/5ページ) -


違います。


俺はこの件について前に書いたことある
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内田樹先生の解釈もおかしいが、調べてみるとそれ以上におかしな解釈が次から次に出てきた。それも錚々たる面々が。その中には慶応大学出身者も多い。この上田和男という人も慶大出身者。


なぜそれほど難しいことが書かれているわけでもないのに多くの人が間違えるのだろうか?どこかで影響力のある人が間違った解釈をして、それが後の人達に影響を与えているのだろうか?不思議で仕方がない。


「立国は私なり。公に非ざるなり」とは「すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらず」という意味だと福沢諭吉自身が「瘠我慢の説」に書いている。
福沢諭吉 瘠我慢の説 瘠我慢の説


現代風に言えば「宇宙から地球をみれば国境線など引かれていない。国なんてものは自然法則で出来た絶対的なものではなく人間の都合でできたものだ」というような意味だ。


ただし福沢諭吉の主張したいことはそこではない。福沢はここで単に「事実」を述べただけだ。そこから「想像してごらん 国境なんて存在しないと」という話に発展するのでは無く現実の話をするのだ。現実には国というのは「開闢以来今日に至るまで」存在してきた。国なんて所詮幻想にすぎないといったところで現に存在する。それが現実だ。


であるならば、二つの「公道」があるのだ。哲学においては「天然の公道」ではなく「私情に生じたる」とされるものが、「立国」においてその「私情」は「公道」になる。福沢が重視するのはもちろん後者の「公道」


つまりだ、福沢は
「立国は私なり」と言うけれどそれは哲学的な見解であって、人類の歴史の実際を見れば「立国は公」なのだ
と言ってるのだ。



このような説の立て方は「学問のすすめ」と同じだ。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり

というのは「哲学」を述べているのだ。しかしそのあとで

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

と現実を述べるのだ。


福沢は哲学による理念に現実を近づけようとする啓蒙思想家ではない。理念は理念として、現実は理念と往々にして異なるということを正面から受け止め、その現実世界でどう対処していくかという実践的な方法を重視する人なのだ。



※ 念のために言っておくけれど、理念と現実が異なるとき、福沢は現実を偽物なのだという見方はしない。現実は本物なのだ。内田樹が解説する
公共性と痩我慢について (内田樹の研究室)

立国立政府はカテゴリカルにはローカルでプライヴェートなことがらであるが、「当今の世界の事相」を鑑(かんが)みるに、これをあたかも「公」であるかに偽称せざるを得ない、と。

国家は私的幻想にすぎない。しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが私たちが生き延びるためには必要だ。

そういうときは、「間違った痩我慢」が要求される。

などというような「哲学が本物であって、現実は偽者だがあえて本物だとみなす」というような考え方とは相容れないのである。
(そもそもそれ以前に福沢が「開闢以来今日に至るまで」と書いてるのに「当今の世界の事相」とするなど、言ってることが隅から隅まで無茶苦茶なんだが)