「立国は私なり。公に非ざるなり」の意味(その2)

念のために書いておくけれど、「立国は私なり。公に非ざるなり」の解釈はネットで検索すると、上田和男氏の書いてるように解釈している人が多い。それだけじゃなくいろんな解釈がある。


しかし普通に読めば俺の解釈になる。別に難しく考える必要なんか無い。中学生でも、あるいは小学生でも理解できるかもしれない。ところが一流大学を出た面々がわけのわからない解釈をしてる。だけど俺が書いた時点ではネットでそういう解釈をしている人は見つけられなかった(今は少しある)。俺は内田樹氏の解釈を見て「それはおかしい」と思った。それで前に記事を書いたのだが、調べるていると内田氏以上におかしな解釈をしている人が大量にいる。それらと比較すると内田氏はまだましなほうだということに驚愕した。


それが非常に不思議。繰り返すがそんなに難しいことは書いてないのだ。何かをこじらせているようにしか思えない。下手に福沢諭吉についての知識があるとか、質の悪い福沢諭吉論を読んで感化されたとか、何らかのイデオロギーに囚われているとか、福沢の名を借りて本当は持論を言いたいだけとか、そういう理由なんだろう。


しかし、一番の理由は福沢が使う「公」「私」という言葉の意味を理解しようとしないからということなんだろうと思う。「公=国家・政府」「私=個人」とした上で理解しようとするからおかしくなるのだ。ただ、それで理解しようとすれば「何か変だ」と普通は気付くはずだ。そこで「公」「私」とはそういう意味じゃないとわかるはずだ。しかも、

「すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらず」

とあるんだから、それに気付かないというのは本当にわけがわからない。


優秀な大学を出て優秀な頭脳を持っているはずの人が、なぜこんなおかしなことを言ってしまうのか?これは単にそういう人をバカと嘲笑していればいいものではないように俺には思えて仕方ない。



(追記)
あと、論文などで顕著だが、冒頭に書いてあることが筆者が一番主張したいことなのだという、現在においては一般的な通念が誤読を招くというのもあるのだろう。