福沢諭吉はなぜかくも誤解されるのか?

前に福沢諭吉の『痩我慢の説』について調べたとき、著名な文化人・評論家がことごとくおかしな解釈をしているのを見て驚いたことがある。
2010-10-13 - 国家鮟鱇


諭吉の文章は平易であり、昔の文体に慣れさえすれば中学生でも理解できるようなことしか書いてないと俺は思う。にもかかわらず日本を代表する知識人が妙な解釈をする。インテリほど深読みして難しく考えてしまうものなのだろうか?


それもあるかもしれないが、俺は密かに彼らの所持する哲学と諭吉の哲学があまりにも異なっているからではないかと思っている。俺の見るところでは諭吉はバーク流の保守主義者である。諭吉がバークについてどれだけ知っていたかは知らないけれど、相通じるところが多いように思う。


保守思想は伝統を重視する。伝統は理性から出るものではなく、先人の様々な試行錯誤の積み重ねよりなっているものであり理屈で完全に説明できるものではない。しかるに近代の理性主義者は彼らの理性にそぐわぬものは悪しき慣習として徹底的に排除した。そして彼らの考える理性より出るものを絶対的・普遍的なものと信じ、全人類を彼らの基準により色分けして、彼なの基準よりみて劣っているとして未開だとか後進的だとか評したのである。しかるに彼らの思想もまたヨーロッパという風土より起こったものであって絶対的・普遍的なものではないのである。現在ではヨーロッパを先進地域と見なすような見方は現在では否定されている。だが表向き否定されてはいるけれど理性主義者の深層に今でも根をはっているのである。


諭吉の場合はそうではない。諭吉にはそのような絶対的・普遍的な価値観を重視する思想はないと思う。諭吉にとって重要なのはそのような絶対的な理性による価値判断基準ではなくて、現実の世界で現実の問題に対処する上で何がベターかということだろう。ある時代のある地域のある条件の下で何を選択するのが良いのかということであって、それが別の時代・別の地域・別の条件の下では優れていたとしても、今現在役に立たなければしょうがないのである。



「脱亜論」で諭吉が論じているのは西欧列強がアジアに進出しているという現実を見据えて、それに対処するにはどうすればいいのかということだ。決して西洋が優れていて東洋が劣っているということではない。しかし現実問題として現状を維持することはできないのだ。

ゆえに最近、東洋の諸国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

脱亜論 - Wikisource


諭吉が脱せよと言っているのは「亞細亞ノ固陋(アジアの旧習)」であるけれど、西洋文明が素晴らしいからそれを受け入れてアジアから脱しろという話ではなくて、受け入れなければ独立が危ういという話だ。そして旧習から脱することのできない中国や韓国の仲間から脱しろということだ。


ここに福澤諭吉のアジア侵略の意図を読み取る人もいるみたいだけれども、もしそうならば仲間から脱しろではなく、仲間として積極的に介入して中国・韓国を改心させよという話になるのではないだろうか?そして実際に日本はその方向に進むのだ。だが「脱亜論」からそのような意図を読み取ることは不可能だ。



ところで諭吉が侵略主義者だと考える根拠として石河幹明の『福澤全集』があるそうだ。だがこれは実は諭吉が書いたものではないという説が出されている。この問題はまだ決着が付いていない。しかしながら、仮にもし『福澤全集』に見える侵略主義が諭吉本人のものだとしても、それと「脱亜論」を同列に論じることはできないように思う。それらが諭吉本人のものであったとしても、その場合は諭吉の二枚舌、あるいは変心として評価されるべきものであり、同一の思想で繋がっているものだとは思えないからだ。