福沢諭吉のアジア「蔑視」

どうして曾孫は映画化されないのかとか - Living, Loving, Thinking
経由
福沢諭吉の実像とは 自由と平等唱え、アジア蔑視発言も - 本のニュース | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト

 福沢に関する最大のなぞは、「脱亜論」などにみられるアジア観だ。自由・平等な合理精神の持ち主とされながら、上記の偏見に満ちた発言も残している。安川寿之輔名古屋大名誉教授は「食うか食われるかの帝国主義の時代、福沢は食う側の立場で、侵略合理化のためアジア蔑視を言い募った。

「上記の偏見に満ちた発言」とあるけれど、この書評を何度読み返しても、その「上記の偏見に満ちた発言」が見当たらない。新聞に掲載されたときにこの書評の上の別の書評にそれがあったということだろうか?


福沢諭吉がアジアを蔑視していたという話をよく目にするけれど、具体的にどの部分が蔑視に該当するのかがわからない。幸いここに『「脱亜論」などにみられるアジア観』とあるから「脱亜論」を読んでみることにした。
脱亜論 - Wikisource


だが、その前に「蔑視」とは何かということを考えなければならない。

[名](スル)相手をあなどって見くだすこと。「―に耐えられない」

べっし【蔑視】の意味 - 国語辞書 - goo辞書


その次に「蔑視」は悪いことなのかということも考えなければならない。たとえば進歩的で文化的な人がネット右翼を蔑視する、あるいはニセ科学信奉者を蔑視する。これはいけないことなのか?人種や民族による差別をしてはいけないというのは大多数が共有する認識だが、あらゆるものを蔑視してはいけないという道徳は現在においても共有されていないように思われる。


たとえば「日本は○○について遅れている」とか「日本はいまだ封建社会だ」などという言説を進歩的文化人が口にするのはよく耳にすることだが、それが問題発言として糾弾されたという話は聞かない。


それを踏まえた上で「脱亜論」を読むと、確かに福沢諭吉は中国・韓国を「蔑視」していると言うことは不可能ではない。


特に、

其人種ノ由來ヲ殊ニスルカ但シハ同樣ノ政繁風俗中ニ居ナガラモ遺傳教育ノ旨ニ同シカラザル所ノモノアル歟

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか

とあるので、これを問題発言と受け取ることも不可能ではないように思える。


ただし、

今ノ文明東漸ノ風潮ニ際シ迚モ其獨立ヲ維持スルノ道アル可ラズ

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

と書いてあるのであって、すなわち「文明東進の情勢の中」という条件において論じていることは明らかだ。


すなわち、絶対的な優劣を論じているのではなくて、ある条件の元での有利・不利を論じているものと考えるべきであろう。たとえば「身長の低い人は特定のスポーツで不利」と言ったからといって身長が低い人の存在を全否定しているわけではないだろうし。


もちろんこの福沢諭吉の認識が正しいのかという問題はある。それについては論じるべきだろうけれど、ただ単に「蔑視」(この表現が適切なのかということは置いといて)しているということだけで問題視するのはいかがなものかと俺は思う。むしろこれを問題視する人というのは、日常的に絶対的な価値基準でもって優劣を決めるタイプの人なのではないかとさえ思う。


※ なお儒教批判についても、これと同様のことが言えるのではないかと思う。あくまで西欧列強がアジアに進出してきているという情勢のもとでの儒教批判ということになるのではなかろうか。