蕨の粉 (その14)

だが若者たちはこのことを知るや、寡婦の家に急行し、数人の子どももろとも、彼女らを撲殺してしまう。
 「盗み」という行為は、後世に比べてはるかに重い罪であると認識されていた、というよく分からない説明が付される事件であるが、問題視すべきところが間違っている。若い者の「武」が強烈に作用し、事件を凄惨なものにしていることにこそ注目すべきなのだ。


「よく分からない説明」を誰がしているのか俺にはわからないけれど、なぜそれが「よく分からない説明」なのだろうか?1549年のザビエル書簡にこうある。

この地方では盗人が少なく、盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。

(「『フランシスコイコールザビエル』浅見雅一 山川出版社」より河野純徳訳の孫引き)
永正元年(1504)から45年後の鹿児島についての報告だけれども、『政基公旅引付』の記述と良く一致しているではないか。むしろ本郷氏よく分からない。確かに女性や子供が殺されているけれど、青年も殺されているし、米俵を盗んだ右馬も殺されている。事実としてこの時代の女性や子供が被害に遭いやすいということはあったのだろう。しかし本郷氏が提出する史料ではそれを証明できるとは思えない。



しかし、この人は「よく分からない説明」だとか「珍妙な考え方」とか「そんなつまらないこと」とか非常に口が悪い。相手は同じ歴史学者や研究者ではないか。それでもそれが真っ当な批判ならば「人としては最低だが学者としては優れている」と言えるだろうけれど、そうは到底見えないのだ。


この『武力による政治の誕生』だけでもツッコミ所は他にも山ほどあるだろう。ページを適当に開いてそこを徹底的に調べれば一つ二つは見つかるのではなかろうかとすら思える。しかし1ページに満たない部分を批判するだけでも、これだけの手間隙がかかる(ただし書くのに手間がかかるのであって問題点は図書館でざっと調べただけですぐにわかったが)。到底やっていられない。