福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その8)

次に加藤寛

行政改革の旗手として歩んできた加藤寛が、7人の論客とともに日本人に問う!官に頼らず、独立の丹心なくして日本の再生はない。

Amazon.co.jp: 立国は私なり、公にあらず―日本再生への提言: 加藤 寛: 本


これは本の宣伝文句だから加藤寛が本当に「立国は私なり」の意味をそう解釈しているのかはわからない(でも多分そう解釈してるんだろう)。


しかし、「立国は私なり」はそういう意味じゃないのだ。福沢諭吉は『痩我慢の説』で「官に頼るな」みたいなことは言ってない。だからといって福沢が「官に頼れ」と言ってるわけでもない。そりゃ福沢なら「官に頼るな」と言うだろうとは思う。しかし「立国は私なり」とはそういうことじゃないのだ。



次に、石原慎太郎

 かつて、明治の先覚者、福沢諭吉は「立国は私なり、公に非ざるなり」「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」と説いております。「私」という個人の強い意思が国家を動かす原動力であり、また、自立した個人でなければ、国のことを主体的に深く切実に考えられない、という意味であります。

石原知事施政方針/平成11年第一回都議会臨時会|東京都

これも上に同じ。福沢が別のところで言っていることを、ごちゃまぜにしてるのだ。


次に、石原伸晃

「立国は私なり、公に非ざるなり」福沢諭吉はこう言って、世の人々の奮起をうながしました。これは、この国をより良くしようと努力することは、実は「公」ではなく、むしろ私事である。自分の心の中に、その思いを抱くことのできない者は、しょせん国を思うことなどできない。といった意味です。「立国の志は私なり」 私達一人一人が、21世紀の日本を作るためどうしたらよいか、何をすべきか、もう一度この国の行き方を自分の問題として考え直すべき時に来ているのです。

トピックス:衆議院議員 石原のぶてる公式ホームページ


これも上に同じ。父親をしっかり受け継いでいる。福沢の思想としてそういうものがあったであろうことは否定しない。そういう思想が『痩我慢の説』の中にも反映されているだろうとも思う。だが、何度でも言うが「立国は私なり、公に非ざるなり」からそれを導くのはあまりにも遠すぎる。



ここまで見てきて思うのだが、なぜこんな誤解が生じるかというと、福沢が「なり」と言っていることを「あるべし」と読みかえているからではないかと思わざるをえない。


「立国は私なり、公に非ざるなり」は「立国は私に属するものであるべきで公に属するものであってはならない」という意味ではない。福沢は福沢の認識する「事実」を述べているだけである。


それともう一つ、誤解の原因として「私」を「個人」と読みかえていることがあるのだろうと思う。だが、ここでいう「私」とは「公」に対立するものとしての「私」である。福沢諭吉慶應義塾大学という「私立大学」の創設者であり、確かにそれは福沢個人が創設したものであろうが、「私立大学」は個人が創設した大学という意味ではなく「公立」ではない大学のことだ。法人が創設したって「私立」だ。


「立国は私なり、公に非ざるなり」の「私」とは「公」ではないという意味だ

 立國は私なり、公に非ざるなり。地球面の人類、その數、億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各處に群を成し各處に相分るるは止むを得ずと雖も、各處におのおの衣食の富源あれば、之に依て生活を遂ぐ可し。又、或は各地の固有に有餘不足あらんには、互に之を交易するも可なり。即ち天與の恩惠にして、耕して食ひ、製造して用ひ、交易して便利を達す。人生の所望この外にある可らず。何ぞ必ずしも區々たる人爲の國を分て、人爲の境界を定むることを須ひんや。況んや其國を分て隣國と境界を爭ふに於てをや。況んや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするに於てをや。況んや其國に一個の首領を立て、之を君として仰ぎ、之を主として事へ、其君主の爲めに衆人の生命財産を空うするが如きに於てをや。況んや一國中に尚ほ幾多の小區域を分ち、毎區の人民おのおの一個の長者を戴て之に服從するのみか、常に隣區と競爭して利害を殊にするに於てをや。

立国するということは、科学の法則があるようなものではない。それにもかかわらず、古今東西世界の人民は国を立ててきたということだ。ここでいう「公」とは「地球は丸い」とか「太陽は東から昇る」といったようなものだ。人類には「立国しない」という可能性だってあるのだ。それにもかかわらず立国してきたということだ。それを「私」と言っているのだ。逆に言えば「立国」は普遍的に行われてきたことだから、それを当然のことに思っている人もいるかもしれないけれど、そうではないという意味だ。世界には様々な風俗習慣があるが、それと「立国」は同じであるというような意味だ。


そして、そのように「立国」は「私」であるけれども、古今東西の人民が国を立て、それを公認してきたのだから、「公道」であると言っているのだ。もちろんこれも「公道であるべき」という話ではなくて「公道である」という話だ



これが理解できない人にはどうしても理解できないらしい。


どう説明すればいいのだろう。たとえば宇宙論「人間原理」というのがあるけれど、そういうのに近いかもしれない。


(追記)
たとえば「ニセ科学」の話だってそうだ。「科学は絶対ではない」のだ。科学を受け入れない社会というのも充分に想定できるのだ。しかし現代社会では多くの人々が科学の成果を利用しているのだ。故に科学は普遍性を持っているのだ。まあ、これも理解できてない人はいっぱいいると思うけれど。