福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その6)

最初に俺は

立國は私なり、公に非ざるなり。

について、「これはそのまま受け取れるだろう」と書いた。


ところが、「立国は私なり」で検索してみると、どうやらこの考えは甘かったようだ。不思議な理解がいっぱいある。どうしてそんな理解をしてしまうのだろう?むしろそっちの方が不思議だ。


この問題は、たとえば一時流行した「なぜ、人を殺してはいけないのか?」問題と同じようなものだ。


福沢諭吉ならこう答えるのではないだろうか?
「人を殺してはいけないというのは私情であり公ではない」
と。


もちろん俺は福沢なら人殺しを容認しただろうと言いたいのではない。


「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに哲学的には正しい答などない。しかし古今東西「人を殺してはいけない」という道徳は厳然として存在してきたではないかと、そう福沢なら答えるだろうと言いたいのだ。


というか『文明論之概略』にこう書いている。

耶蘇と神儒仏と其説く所は同じからずと雖ども、其善を善とし悪を悪とするの大趣意に至ては互に大に異なることなし。譬へば日本にて白き雪は西洋にても白く、西洋にて黒き炭は日本にても黒きが如し。

文明論之概略


こういうことは、ポストモダン思想が広く流通している現在なら、簡単に理解できそうなものだ。ポストモダン思想は「絶対的真実はない」という思想だ。これは「なんでもあり」ということにもなる。ポストモダンを批判するときに良く言われることだ。


だが「なんでもあり」だとはいえ、人間は有限の存在である。無限の存在なら可能性も無限であり拡散するけれども、有限であれば、そこに共通のものを見出すことは可能だ。古今東西において善と見做されているものは、絶対に正しいとは言えないにしても普遍性を持っている。


福沢諭吉が言いたいのはそういうことだと確信している。