福沢諭吉が迷信を否定した合理主義者として考えられているように、織田信長もまた同様に考えられている。
イエズス会のルイス・フロイスは信長について次のように記している。
彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
(『完訳フロイス日本史2』中公文庫)
ところで、信長だけがそのような考えをしていたかというと、そうではない。同じ『日本史』には、美濃国守護土岐氏の重臣、山田ショウ左衛門がロレンソ修道士に語ったとことが記されている。
「神や仏が存在していることや、その権力とか能力についてわざわざ説明するには及ばない。それらが幻影に過ぎず笑うべきことであることは、予はすでに幾年も前から知っておるし、賢明で学識ある人々は、そのような考えをなんら評価していない。自分は禅宗に帰依しており、それら神仏とはなんの関係もない」
(『完訳フロイス日本史1』中公文庫)
※これは「無神論」ということになるけれど、注意しなければならないのは「神」とは「GOD」のことではく「カミ」だということ。ショウ左衛門はこの会話の後イエズス会に入信した。
神や仏が幻影だという考えは、当時であっても特殊なものではなく、信長が「特殊」だったとすれば、それは、その思想を行動にあらわした点において際立っていたということでしょう。
諭吉も信長も「合理主義者」に見えるけれど背景には「宗教」があった。ただし、西洋合理主義の背景にも「宗教」があったとも言えるので、そういう意味では共通していると言えるかもしれない。ところが、信長の合理主義に言及したものには、「宗教」と切り離された形のものが多い。
その一方で、信長は「無神論者」ではないという説もある。確かに俺が見るところでも、信長は「ゴッド」的なものも「カミ」も信奉していた節がある。では、信長は「無神論者」ではないのかというと、こっちも間違いでないように思う。しかし、それは矛盾している。ここが現代人には理解に苦しむところだが、おそらく同時代人で理解できる人がいたとしても少数であっただろう。
政治的な目的でカミを信仰するふりをしていたのだとする説もあり、もっともらしくも見えるけれど、俺はそうは思わない。信長の脳内では、何が迷信で何が本物なのかの基準があったのだろうと思う。その基準がどういうものかわからないので、外から見ると混乱しているように見えるのだろう。