俺が楽市楽座についてほとんど無知だということは前にも書いた。
で、調べているうちに俺はとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。それは「楽市楽座が信長の独創ではない」ということではない。そんなことはいくら無知だからってさすがに知ってた。信長関連の情報を見ていれば嫌でも目に入る。初歩の初歩だろう。むしろ、そんなことは戦前から知られていたことなのに、なんでしつこくそれを言うのか鬱陶しくさえ思ってる。
俺が勘違いしてたのは、
「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」
ということだ。
(いや本当は情報としては知ってたのだ。しかしなぜか知っていたのに勘違いしていたのだ。それはまた後ほど)
皆さん知ってました?まあ知ってた人はたくさんいるのかもしれないけれど、でも知らない人も結構いるんじゃないですかね?
だって、普通こういう説明がされるじゃないですか。信長は美濃を攻略して、斎藤氏の居城だった井の口の城を「岐阜」と改称し、楽市楽座令を出して商業を振興した。岐阜の町の賑わいはキリスト教宣教師も絶賛した、と。
そう言われたら「信長は岐阜の城下町に楽市楽座令を出したのだ」と、そう理解するのが自然というものじゃないですかね?
検索してみれば、たとえば
城下では楽市楽座が保護され、長良川水運の要衝として栄え、諸国から集まった物資や商人で溢れるその賑わいぶりは、信長との謁見のために訪れたポルトガル人宣教師・フロイスが「(大いなる都)バビロンのよう」と形容するほどだった。
⇒歴史群像―学研デジタル歴史館−「城下町探訪 1.岐阜―天下統一の野望に燃える信長が本拠とした城下町」
とか
宣教師ルイス・フロイスによると岐阜の城下町はさながら「バビロンの雑踏」の様相を呈していたという。訪れた人々は楽市楽座のもたらす豊かさを実感していた。楽市楽座は今川義元、斎藤道三、六角承禎などがすでに部分的に実施していた領国経済振興策である。
信長の岐阜城下町について、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』から紹介します。フロイスは、
(略)
楽市楽座令により、全国から人や物の集まった岐阜町の繁栄ぶりがよく分かります。
⇒岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 7.岐阜城下の繁栄
とか、こういうの読んで、勘違いしないほうがおかしいでしょう。
※「岐阜町」というのは「岐阜城下町」と違うのかと思って調べたけれど「ほぼ同じ」とのこと。
⇒江戸時代の「岐阜町」のようす
しかし、信長が楽市楽座令を出した場所は「加納」である。
この「加納」というのがどこなのか論争があったらしいのだけれども、現在有力なのは「御園」という所(ただし異論あり)
⇒岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 10.信長の楽市楽座令
ここを城下町というのは無理でしょう。
このことを知って一瞬にして俺が持っていた楽市楽座のイメージは、それまで持っていたものとは全く違ったものになったのであった。
※ それにしても、「楽市楽座令が信長の独創ではない」なんてことを何とかの一つ覚えのように繰り返すよりも、「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜城下町ではない」の方が何百何千倍も重要な事だと俺は思うんだけれど、こっちの説明はろくになされていないのは非常に不思議。
(つづく)