福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その4)

福沢諭吉曰く

 左れば、自國の衰頽に際し、敵に對して固より勝算なき場合にても、千辛萬苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立國の公道にして、國民が國に報ずるの義務と稱す可きものなり。即ち俗に云ふ瘠我慢なれども、強弱相對して苟も弱者の地位を保つものは、單に此瘠我慢に依らざるはなし。啻に戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際に於ても、瘠我慢の一義は決して之を忘る可らず。歐州にて、和蘭、白耳義の如き小國が、佛獨の間に介在して、小政府を維持するよりも、大國に合併するこそ安樂なる可けれども、尚ほ其獨立を張て動かざるは小國の瘠我慢にして、我慢、能く國の榮譽を保つものと云ふ可し。


内田樹先生曰く

立国は私情である。痩我慢はさらに私情である。
けれども、これ抜きでは頽勢にある国家は支えきれない。


そもそも「痩我慢」の意味を内田先生は理解しているのか?先にも引用した通り、

 扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。其衰勢に及んでは、迚も自家の地歩を維持するに足らず、廢滅の數、既に明なりと雖も、尚ほ萬一の僥倖を期して窟することを爲さず、實際に力尽きて然る後に斃るるは、是亦人情の然らしむる所にして、其趣を喩へて云へば、父母の大病に囘復の望なしとは知りながらも、實際の臨終に至るまで、醫薬の手當を怠らざるが如し。是れも哲學流にて云へば、等しく死する病人なれば、望なき囘復を謀るが爲め、徒に病苦を長くするよりも、モルヒネなど與へて、臨終を安樂にするこそ智なるが如くなれども、子と爲りて考ふれば、億萬中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすが如きは情に於て忍びざる所なり。

国が衰えて廃滅しそうになっても万一の僥倖を期して屈しないということが「痩我慢」である。あるいは父母が大病で回復の望みがないと知っていても、実際の臨終に至るまで医薬の手当てを怠らないのが「痩我慢」である。


「これ抜きでは頽勢にある国家は支えきれない」ではない。支えきれないのがわかっているのに最後まで尽力するのが「痩我慢」だ


ボケるのもいい加減にしろと言いたくなる。


頽勢にある国家に「痩我慢」が必要だということではない。それは「人情の然らしむる所」だと言っているのだ。


福沢が「痩我慢」が必要だと言っているのは「頽勢にある国家」のことではない。

啻に戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際に於ても、瘠我慢の一義は決して之を忘る可らず。歐州にて、和蘭、白耳義の如き小國が、佛獨の間に介在して、小政府を維持するよりも、大國に合併するこそ安樂なる可けれども、尚ほ其獨立を張て動かざるは小國の瘠我慢にして、我慢、能く國の榮譽を保つものと云ふ可し。

オランダやベルギーのような小国がフランスやドイツの間にあって、独立を保っているのは「痩我慢」のおかげだといって言っているのだ。


福沢が言いたいのは、「支えきれないのがわかっているのに最後まで尽力する」という「痩我慢」の精神は戦争の時だけではなく、「平時の外交おいても決してこれを忘れてはいけない」ということだ。


戦時において「痩我慢」は人情として自然に起こってくるものだ。平時において、それは自然に起こってくるものではなくて、それを養っていかなければならないと言っているのだ。そしてそれを損なうものを福沢は批判しているのだ。


内田樹先生が『痩我慢の説』から読み取ったこととまるで違っているのである。


内田先生はエリーザベト・ニーチェ―ニーチェか?


(つづく)