福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その5)

立國は私なり、公に非ざるなり。

福沢諭吉は『痩我慢の説』冒頭でこう述べる。ここで多くの人が誤解する。福沢は「立国は私的なことで公的なことではない」ということを主張しようとしているのだと。


しかし、そうではない。俺の見るところ福沢は徹底したリアリストである。


福沢は最初に「哲学流」(科学的な原理・原則というようなニュアンスがあるのだろう)の解釈を披露したああとに、にもかかわらず現実がどうなっているのかを述べ、現実においてどう対処していくべきかを述べているのである。


これとは逆に、現実を「哲学」に合わせようと考えるのが「革新」だ。福沢とは全く違う立ち位置だ。



ところで、同じことは『学問のすゝめ』についてもいえる。冒頭で福沢は、

天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云えり。

と述べる。とても有名な言葉だ。これをもって福沢を平等主義者だと見做している人も多いだろう。俺も中学生くらいまではそう思っていた。ところが、その後に、

されども今広くこの人間世界を見渡すに,かしこき人あり,おろかなる人あり,貧しきもあり,富めるもあり,貴人もあり,下人もありて,その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

とある。人は平等であるはずなのに、現実には賢愚の差や貧富の差があるのはなぜだと問いかけるのだ。そして、賢人と愚人との差は、学ぶと学ばざるとにあるのであるとして、学問を勧めるのである(これは比較的有名な話だけど)


福沢にとって人類が平等だというのは「哲学上の事実」である。平等であるべしとかそういう話ではなくて、それは動かしがたい「哲学上の事実」なのだ。しかし、現実には差が生じるということもしっかりと踏まえた上で、その現実にどう対処するのかを考えているのだ。


これはそれほど特殊な考えというわけではない。多くの人は意識するしないにかかわらず、それを実践しているはずだ。


むしろ特殊なのは「インテリ」と呼ばれる人達の方だ。彼等は思想に没頭するあまり、それがわからなくなってしまっているのだろう。だから福沢諭吉が言っていることが非常に単純でわかりやすいことであるにもかかわらず、変な解釈をしてしまうのだろう。