福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その2)

福沢諭吉曰く

扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。


内田樹先生曰く

別に国運が隆盛で、平和と繁栄を豊かに享受しているようなときには、そんなことを考える必要はない。


「立國立政府の公道」とは「忠君愛国」のこと。「忠君愛国」というと現代人にとってはものものしい印象があるが、

即ち國を立て又政府を設る所以にして、既に一國の名を成すときは、人民はますます之に固着して自他の分を明にし、他國他政府に對しては、恰も痛痒相感ぜざるが如くなるのみならず、陰陽表裏、共に自家の利益榮譽を主張して、殆んど至らざる所なく、其これを主張することいよいよ盛なる者に附するに、忠君愛國等の名を以てして、國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ。

という意味である。現代風に言えば「国民意識」「共同体意識」みたいな感じ。


で、福沢は「そんなことを考える必要はない」なんてことは一言もいってない。というか、必要が有るとか無いとかいう話ではない。人民はそういう意識を持っているという話だ。


福沢が言っているのは、「そういう意識を持っていても平時にはさしたる艱難はない」ということですよね。


もちろん、以上を鑑みれば、

けれども、国勢が衰え、中央政府のハードパワーが低下し、国民的統合が崩れかけたようなときには、「国家なんか所詮は私的幻想ですから」というような「正しいシニスム」は許されない。

なんてことも言うはずがない。内田氏がいう「正しいシニスム」は「哲學流」の考え方であり、人民がそれを持っているなんて話じゃないのだ。


先生はなっちか?


(つづく)