福沢諭吉『痩我慢の説』のテキストはここ。
⇒痩我慢の説(言葉 言葉 言葉)
まず言っておくけれど、俺は福沢諭吉が『痩我慢の説』で主張していることを全面的に同意しているのかといえば、そういうわけではない(現状ではそうだけれど、もっと読み込んで考えてみる必要はあるかもしれないとは思う)。
しかし、同意するにしろ、しないにしろ、福沢諭吉が何を主張しているのかを理解しなければ話にならない。もちろんその際に恣意的な解釈してはならず、ありのままの理解をするように勤めなければならない。
以下検証。
立國は私なり、公に非ざるなり。
人間の私情に生じたること
これはそのまま受け取れるだろう。しかし、重要なのはその次だ。
故に、忠君愛國の文字は、哲學流に解すれば、純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては、之を稱して美徳と云はざるを得ず。
忠君愛国は哲学的な解釈では「私情」ということになるけれど、「今日までの世界の事情においては」これを「美徳」と言わざるをえない。
さて、ここのところを内田樹先生はどう解説しているか?
⇒公共性と痩我慢について (内田樹の研究室)
立国立政府はカテゴリカルにはローカルでプライヴェートなことがらであるが、「当今の世界の事相」を鑑(かんが)みるに、これをあたかも「公」であるかに偽称せざるを得ない、と。
「今日までの世界の事情においては」と書いてあるのに、「当今の世界の事相」と書いている。前者は「昔から今に至るまで」という意味だが後者は「このごろ」というう意味だ、両者は大違いだ。
いやらしい。
そもそも「当今の世界の事相」という字句が元テキストに見つからない。
都て是れ人間の私情に生じたることにして、天然の公道に非ずと雖も、開闢以來今日に至るまで、世界中の事相を觀るに、各種の人民相分れて一群を成し、
とはあるけれど。
もちろん「偽称」なんてことも書いてない。「偽称」などという言い方は「哲学」を絶対視したときに生じるものだ。福沢は「哲學流に解すれば」と書いているのみだ。
この時点でもうお腹いっぱいって感じ。
(講談社のテキストはこれと違うものなのだろうか?その可能性は低いと思うけど)
(つづく)