保守とは何か?

いま保守とは何か?というテーマが関心を呼んでいる。

秋の嵐(五)(西尾幹二のインターネット日録)


確かに、ここ数年、そういう話題が散発的に取り上げられていると思う。
最近では朝日新聞が、「保守とは何か。政治にはありえぬ立場」という山崎正和氏のインタビュー記事を載せたそうだ。


朝日はこのテーマにご執心のようで、前にもこの手の記事が載ったという情報はブログ経由で知っているし、オピニオン誌の『論座』でも何回か取り上げているらしい(俺は購読してないので断片的にしか読んでないけど)。
検証 保守論壇[第2弾]


しかし、俺もこのテーマに関心があるので、ネットをウォッチしているが、それほど関心を呼んでいるようにはみえない。ただ、「保守」と称する人の意見が一様でないということは、明らかだ。「保守」同士の対立もしばしば見かける(論壇全体から見たら目立つほどのものではないけど)。


で、「保守とは〜だ」というような話は何度も見かけたけど、それは多くの場合、自分を「保守」であると規定して、自分のような考え方をする人を「保守」と呼ぶのだと主張して、自己を「真性保守」とか「真の保守主義者」とし、それ以外は「似非保守」であると見なすといった類のものだという印象を持っている。俺も小泉支持だったので、西尾氏から見たら「似非保守」なんだろう。


まあ、それはそれで別に構わないとは思う。同じ「保守」だから仲良くしましょうなんてのよりはよっぽど良い。実際「保守」と言ったって中身は千差万別で、時には共通点が全くと言っていいほど無い場合だってあるのだから。そもそも判断基準さえ共通でない。例えて言えば一方が甘い辛いで判断しているのに、もう一方は固い柔らかいで判断しているようなところがある。


で、ある人間が「自分こそが真の保守で、お前は似非保守だ」と言った場合、似非保守呼ばわりされた方は「いや、お前のほうこそ似非保守で俺が真の保守だ」となるのがオチであって、決着など付くはずもない。そうなると第三者的には2つ、あるいは3つ、あるいはそれ以上の「真の保守」があるということになってややこしい。だからといってどっちかに譲れと言っても譲るわけがない。埒が明かない。


しかし、保守主義の思想家である、エドマンド・バークオルテガトクヴィル等の主張と、自称「保守主義者」の主張のどこが合致していて、どこが合致していないかということならば、判定は可能だろう。もちろん合致していないからといって「保守」ではないと言ったら混乱するだけ。ただ、バークとここが違う、トクヴィルとここが違うというようなことが明らかになれば、それだけで、かなりスッキリとするのではないかと思う。もちろんこれも簡単なことではないだろうけど。