木戸孝紀さんから、トラックバックを頂きました。

リベラルでも保守でも原理主義になりうるということ


ジョナサン=ローチ著『表現の自由を脅すもの』、今すぐには無理ですけど、機会があれば読んでみたいと思います。


さて、木戸さんの記事のタイトルにある、「リベラルでも保守でも原理主義になりうるということ」なんですけど、確かに「保守」と言われる人の中にも、そのような人がいるということは承知しています。そのことは俺の記事の中にも書いています。


ただ、そこで問題になるのが「保守」とは何かという、上にも書いたテーマであって、度々引用している、ロバート・ニスベットの『保守主義 ― 夢と現実』(昭和堂)には以下のように書いてあります。

 ウェズリー主義者の大部分は十七世紀のピューリタンよりもはるかに自制心を備えており、初期のプロテスタント諸派に広く浸透していた反ノミアニズム(旧約やカトリック道徳律を否定し、福音書のみを信じる。ここから、いかなる法にも拘束されないという律法不要論が生じた)を免れていたが、ジョンおよびチャールズ・ウェズリーの最善の努力にもかかわらず、ウェズリー主義の潜在的熱狂はしばしば堰を切ってイギリス人の生活の社会的および市民的領域に流れ込んだ。ある宗派が自らを絶対的真理の所有者と信じ、既成教会を迷信と背徳の砦と信じた瞬間、その宗派は革命の萌芽を身に帯びることになる。そのような宗派が自らを直接神と交信し、この地上の宗教と政治の浄化に責任をもつと宣言するとき、つねに道徳と市民法への脅威が生じるのである。

 要するに、バークに始まりコールリッジ、ニューマン、ディズレーリ、そしてマシュー・アーノルドにいたるイギリス保守主義のかなりの部分は、ウェズリー主義に見られるような、民主主義革命および産業革命に匹敵する宗教革命によって、刺激され形成されたと言える。たいていの体制的もしくは日常的、および慣習化した宗教の場合と同様、国教会派も宗教を絶対的に必要な場合を除いてそれほどひんぱんに庶民の場にもっていくことを好まず、また式典や儀式だけで神への勤めは十分果たされていると考える傾向があった。しかしながら、このような信仰のありかたは宗教を心から信じている者にとっては、すでに一種の危険信号である。


宗教原理主義者のような人達が「保守」と呼ばれているのは事実であって、それは否定しようもないんですけど、その種の人達は「保守」というより、むしろ革命家に近いという考え方があって、俺の「保守」の定義もこの考え方に従っているのであり、つまり、原理主義者を「保守」に含めるのが妥当なのか疑問というのが俺の認識なのであります。ただ、この考え方が広く認められているかというと、そうでもなく、したがって誤解を招く書き方ではあったとは思います。というか招くかもしれないとは思いつつ、そこを上手く説明する能力を持ち合わせていないというのが実情なんです。まだまだ勉強不足なところがありますのでご勘弁を。