当時生まれていなかった人の戦争責任問題

俺は戦争責任問題とか詳しくないんで言及するのを避けてきたんだけど、ここ数日疑問に思っていることがあるので、ちょっと書いてみる。


戦後60年以上が過ぎ、現在の日本では、戦争を体験していない人の方が数が多い。当時まだこの世に生を受けていない人間が、過去の戦争の責任を負わなければならない理由は何か?それが実は良くわからない。


検索してみたら国会で高市早苗議員(当時新進党)が、平成07年03月16日の衆議院外務委員会で、

日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。

と発言していたそうだが、俺は記憶がない。当時バブル崩壊でこういう方面の関心が薄かったからかもしれない。これは一理あると思うけど、俺はそこまで言い切る自信はない。良くわからないので、わからないまま放置している状態。


で、この問題に対して、どういう解答が用意されているのかもわからない。勿論解答は複数あるだろう。ということで、検索してみようと思ったんだけど、挫折した。適切な検索キーワードが思いつかない。誰か一方的な意見だけでなく多方面の代表的な意見をまとめて公開してくれないかな。


とりあえず、一つだけ気になったページ。
新入生にぜひ読んでほしいこの本(立命館大学図書館)

家永三郎『戦争責任』(岩波書店、1985年7月)
それでは過去の戦争時に生まれていない学生諸君には、戦争責任はないのであろうか。家永氏は同書のなかで、そうではないことを明確にしている。「世代を異 にしていても、日本人としての連続性で生きている以上自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続される。」
国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族が集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然である」

これがおそらく、「戦争責任がある」の代表的意見の一つではないかと思うんだけど、注目すべきは、
「日本人としての連続性で生きている」
「国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きている」
「国家・民族が集団として担う責任」
という点。


家永氏というと「左翼」というイメージがある(そうではないという意見もある)けど、それはともかく、家永氏は「日本人」というものを強烈に意識していたことだけは確かですね。「日本人」というものを意識するが故に、責任があると主張している。このあたり「日本人意識」を否定する傾向のある人は、どのように整合性を取っているのだろうか。それとも別の論理があるのだろうか。そのへん特に知りたいです。