少子化防止対策は国家と個人の問題

柳沢大臣の失言、私の見方 (遥洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」):NBonline(日経ビジネス オンライン)


これに限らないのだけど、「少子化問題」での一連の議論を男女の対立として、それも男尊女卑思想を持った男性が問題だと捉える人が少なからずいる。それに違和感を持つ。


確かに「産む機械」発言は、女性蔑視とされても仕方のない発言であった。しかし、正確にいえば、女性蔑視というよりも、人間を機能的側面だけで見た「人権軽視」の発言と言うべきであり、なぜそのような発言が出てきたのかといえば、それは日本の子供の数が減ってきて、将来的に日本の人口が減ると予測され、それを解決するためには女性が子供をたくさん産んでもらわなければならないのであり、そこでは「数字」が重視されるのは必然であるからである。柳沢大臣の発言が「失言」であったのは、それを人に聞かせるとき、「加工」しないで、そのまま口にしてしまったからである。


すなわち、これは男尊女卑思想の現れであるという場合、問題になるのは、「加工しないまま発言してしまった」というセンスの無さについては、あてはまるかもしれないけれども、女性が子供を産む必要については、「国策」としてこれがある以上、誰が大臣になろうと、女性大臣であろうと、そうならざるを得ないのである。


これは、国の望むものと、個人の望むものが必ずしも一致しないということであり、そんなことはちっとも珍しいことではないのである。その後、柳沢大臣の「子供を2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」という発言が再び問題視されたが、この「健全」の意味するところが、いまひとつよくわからないのではあるけれど、仮に、「2人以上子供を産むのが健全」という意味で理解したとすれば、それで日本の人口が減らないという意味においては確かに「健全」なのである。だけれど、もしも、日本人口倍増計画という国策があった場合には、これでは足りないのである。


というわけで、この問題は男女の問題と捉えるべきものではなく、個人と国家の問題と捉えるべきものである。もちろん産みたくても産むことができない経済事情とか職場環境とかの問題があって、それはそれで解決すべき社会問題ではあるけれど、それはあくまで福祉問題とか、雇用問題とかであって、それを改善することによって、少子化を防ぐことができるかもしれないけれど、それだけでは防げない可能性だってある。「少子化防止」という国策が大前提としてある場合、個人の領域に過度に介入してくる恐れがあるわけで、それを単なる男女問題とすることには問題がありそうに感じる。


ところで、ここでもう一つ言いたいのは、「最近の若者」は個人の自由ばかり主張して云々という言説である。だからけしからんという主張と、逆にそういう古臭い主張はけしからんという主張がある。確かに昔に比べて現在は個人の自由が尊重されるのは間違いない。


ただし、この場合の「個人の自由」は「国家からの自由」ではなく、「社会からの自由」である。国策として「産めよ増やせよ」というスローガンが採用されたことは確かにあったが、それ以上に産む立場の女性にプレッシャーを与えたのは、家の存続のために後継者を産むことであった。子供を産まない嫁は離縁することができた時代もあった。その場合プレッシャーを与えたのは男性ではなく「家」であり、姑も嫁にプレッシャーを与えていたのであり、息子も結婚したくなくても、無理矢理にでも結婚させられていたのである。現代でもそういうことはあるだろうけど昔ほどではないだろう。そういう意味では「最近の若者は自由」と言うことができるけれども、「国家からの自由」という意味であれば、国策として子供を産まなければならないなんて話は俺の知る限りではあまり聞いたことがない。


そこらへん、国のために「個人の産む自由」を否定する言説が、復古であるかのように考えられているのは、ちょっとどうかなと思う。