作家がうらやましい

ある分野で功成り名を遂げた人物が、専門ではない分野に関して発言して、それが世間に受け入れられるということは良くある。テレビのワイドショーに登場する文化人の中には、その分野では第一人者かもしれないが、他の分野では人並どころか、いわゆる専門バカで、トンデモな発言を繰り返している人もチラホラ見かけるが、それでも出続けていられるのは、そういう発言をありがたがる人がいるということだろう。


とはいえ、専門的な知識が必要とされる分野、たとえば物理学などでは、専門家以外の人が発言できることは限られている(「水伝」のような話であれば、専門家でなくても何かしら発言が可能だけれど)。一方、「歴史」という分野は、専門的な知識がもちろん必要になるとはいえ、素人でも、それなりに発言が可能な分野であり、実際に、専門家でない人達が積極的に発言している。ブログで量子力学についての論争が活発に行なわれているなんて話は、俺の知る範囲では聞いたことがないけれど、歴史に関する事柄、特に現代史、その中でも戦争についての議論は活発に行なわれている。


これが、古代史・中世史関係になると、現代史ほど活発な議論が行なわれているわけではないけれど、それでも「邪馬台国の位置」とか、「本能寺の変の真相」などの有名な歴史の謎については、多くの一般人が参加している。で、これらの歴史論議において、歴史家の論文や著作が材料にされるのはもちろんだが、歴史作家や推理作家など専門家ではない人の唱えた説が大きく取り扱われる場合が多い。それどころか、場合によっては、こっちの方のウェイトが高かったりすることさえある。


有名どころでは、司馬遼太郎松本清張黒岩重吾豊田有恒、最近では井沢元彦、また哲学者の梅原猛など。彼らの説の大半が、歴史の専門家に支持されていない。ただし、全面的には受け入れられないものの、何らかの真実を含んでいる説もある(かもしれない)。そして、世間には多くの支持者がいる。それも、騙されやすい素朴な人ばかりというわけではなく、全般的に見れば合理的な考え方のできる知識人の中にも多くいる。あまりにも反響が大きいので、専門家も黙っているわけにもいかず、反論したものもある(聖徳太子怨霊説、天武・天智非兄弟説等)。


批判されるのは、主張した側にとっては悔しいことかもしれないけれど、俺から見ればうらやましい限りだ。なぜなら彼らは相手にされたのだから。俺が新説・珍説をこのブログで唱えても誰も相手にしてくれない。存在すら知られていない。なぜ相手にしてくれないかというと、世間で話題にならないからだ。なぜ話題にならないかというと、俺が無名だからだ。なぜ無名なのかというと、俺が歴史の専門家でないからではない。彼らが小説や哲学などの分野で著名であり、一方、俺はいかなる分野においても無名だからだ。


なんてね。ま、ちょっとした愚痴です。あまり真剣に取らないでくださいね。