「小さな政府」について

すなふきんの雑感日記
日本においては「小さな政府」とは、「税金の無駄遣いをやめよう」ということだと捉えられているのではなかろうか。その「無駄」とは何かということで「左」(防衛費等)と「右」(「悪平等」等)が対立している。そんな感じ。


しかし、本来の「小さな政府」とはそういうことではなく、ウィキペディアではこう説明されている。
小さな政府(ウィキペディア)

小さな政府(ちいさなせいふ:limited government)とは、経済に占める政府の規模を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。アダム・スミス以来の伝統的な自由主義に立しており、政府の市場への介入を最小限にし、個人の自己責任を重視する。それを徹底したものを夜警国家あるいは最小国家という。基本的に、より少ない歳出と低い課税を志向する。主に、保守派またはリバタリアンによって主張される。

ところでこれだけでは何ゆえ「保守派」が「小さな政府」を志向するのかが良くわからない。日本では「経済保守」と「政治保守」という分け方をして、「経済保守」が「小さな政府」を志向するのだと理解されている節がある。また、「保守(右翼)」は「大きな政府」を志向しているということを前提にしているとしか思えない議論も多数ある(現実にそうなんだけど)。「保守」は富裕層の利益を守るために「小さな政府」を志向し、減税を要求しているのだと考えている人も多いように思われる。


知識が豊富というわけではないけれど、俺の思うところでは、政治思想としての「保守」が「小さな政府」を志向するのは、国家の関与を可能な限り少なくし「自由」を守るのが目的である。保守主義者の考える「自由」は国家の大きさと反比例する。保守主義者の考える「自由」とは国家から干渉されない「自由」である。国家から恩恵を受けるということは、それだけ国家に束縛されるということだ。だから「小さな政府」を志向するのだ。国家の奴隷になりたくないのだ(そう考えると「小さな政府」とは(それが最も重要ではあるが)必ずしも財政規模の大小ではない)。


なぜ、日本人にこの感覚が少ないのか?これは決して昔からそうだったというわけではない。勘違いしがちだが、江戸時代は今よりもずっと「小さな政府」だった。治安も福祉も地域共同体の自治によるところが大きかった。いや、今でもこの感覚が少なくなったわけではないのかもしれない。政府の個人への干渉は「左翼」が猛烈に批判している。その中に紛れ込んでいるのかもしれない。だが一方で左翼は「大きな政府」を志向するものであり、「日本の左翼」も福祉に関して「大きな政府」を志向している。しかし、これももしかしたら、左翼思想なんかじゃなくて、日本でも古来よりあり、民主主義国とはとても言えない国にもある「金持ちは弱者を救済すべき」という「共同体」の思想を反映したものが含まれているのかもしれないなんて思ったりして。