死神騒動

俺にとってはどうでもいい話題。しかし、どうでもいい話題ほど、気楽に書けるからか筆が進む。


そもそも「神」とは何か?6月18日の「素粒子」から。

永世名人 羽生新名人。勝利目前、極限までの緊張と集中力からか、駒を持つ手が震え出す凄み。またの名、将棋の神様。

当たり前だが、「将棋の神様」は、単に「将棋を指す人」を形容する言葉ではない。

この項目は、何らかの分野(スポーツ・文学など)において、他者からの尊敬や畏敬を込めて「○○の神」などと言われる人物の一覧である。

比喩としての「神様」「神」一覧(ウィキペディア)


なぜ羽生善治が「将棋の神様」と呼ばれるのか、解説が以下のページに書かれている。
「羽生善治の軌跡」(保坂和志公式ホームページ)
ただし、俺は将棋に詳しくないので、この解説が「正しい」ものかわからない。また素粒子の筆者が同じ解釈をしているのかもわからない。まあ、とにかく「人間離れして神のような凄い人」ってことなんだろう。


で、それに続けて、

永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神

とくる。なぜ鳩山法相が「死に神」なのか?羽生氏が「将棋の神様」と呼ばれるように、鳩山法相のことを「死に神」と呼ぶことが流行していたのだろうか?朝日といえば去年、石原壮一郎氏がコラムで、

アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。

と書いたことが騒動になったのが記憶に新しい。そういうことではなくて、素粒子の筆者が皮肉を込めて「またの名、死に神」と書いたということだろうか?


どちらを選ぶかによって解釈が異なってくる。前者であれば、すでに世間で「死に神」と呼ばれていたということであり、「新記録達成」云々とは独立しているという解釈が可能だが、後者の場合はそうではなく密接に関係していると解釈できる。前者の場合の疑問点は、本当に「死に神」と呼ばれていたのかということになるが、後者の場合は、なぜ素粒子の筆者が鳩山法相を「死に神」と呼んだかということになる。


で、後者の場合、『「自信と責任」に胸を張り』とか「新記録達成」が、法相を「死に神」と呼ぶ理由であろうと思われ、すると、法相であれば誰もが「死に神」だという解釈は無理があるのではなかろうか。「将棋を指す人」が「将棋の神様」ではないのと同様、「死刑執行命令を出す人」が「死に神」というわけではなさそうである。文脈的に見ればそうなるはず…


しかし、我々の一般常識での「死神」というのは、多くの人を死に追いやるとか、そういったイメージではない。基本的に数の問題ではない。そこで解釈に混乱が生じる。「死神」のイメージは一様ではないが、どちらかというと、死刑の執行命令を出すことをもって「死神」と形容するほうが、人々に受け入れられやすい(しかし、俺なんかは、死神に死を決定する権利は無いというイメージを持っているので、それでも違和感がある)。


素粒子流の表現と、一般の人の持っているイメージを重ねると、「死に神」とあるところは「死に神の神様」と書くべきところなのではないだろうか?しかし、それはそれで「死に神の神様」なんて表現はおかしいということになる。だからといって、他にどう表現すれば良いのかもわからない。「優秀な死に神」とかにすれば良かったかもしれないけれど、それだと前の「将棋の神様」とある中に「優秀な」という意味が含まれているのと、上手くつながらない。元から無理があったと思う。


さらにややこしいのが、素粒子を擁護する人が、死刑執行命令を出すことによって、「死に神」と形容するのは正しいと主張していること。さらに拡大解釈して、現行法を側面指示している人(一億3千万人)は全員「死に神」だなんて言っている人までいる。しかし、これは素粒子が言わんとしたこととはまるで違っているのではないか?