相容れない意見を「間違っている」とすることについて

ネットの話題は目まぐるしい。この話題はもう鎮静化しちゃたんですかね。ここが肝心なことだと思うのだけれど、田母神氏の更迭理由は「政府見解に反する」からですよね。「間違っている」からじゃありませんよね。


そもそも「間違っている」という判断を誰が下すことができるのだろうか?個人的見解であればそれは可能だし、実際多くの人が間違いだと言っているけれど。


俺は、思想・信条の自由だとか、言論の自由をとかを肯定しておきながら、「間違っている」からという理由で安易に意見を排除するような行為は、とても危険だと思っているんですね。それならば、相容れない意見を排除する行為の方がはるかにましであると。


なぜなら、後者は相容れない意見を意見であると認めた上で、相容れないという理由で排除しようとしているのに対し、前者はその意見をそもそも意見であると認めていないから。「間違っている」とはそういうことでしょう。


そのことについては前に書いた。
リベラルの攻撃性

この記事にトラックバックを送ってくださった木戸孝紀氏の記事も大いに参考になります。
神は細部に宿り給う リベラルでも保守でも原理主義になりうるということ


たとえばですね、これも前に書いたんだけれど、「アニマルライツ」について。
アニマル・ライツとテロリズム
ネットを巡回していると、彼らの考えや行動について「おかしい・間違っている」という趣旨で発言している人がたくさんいるんだけれど、俺はそうは思わないんですね。ただ、彼らの考えと俺の考えは相容れない共存不可能なものであると思うだけですね。肉食いたいですからね。


そりゃ探せば彼らの間違いを見つけることはできるだろうけれども、問題はそんなことじゃなくて、考えが根本的に違っているってことなんですね。それを、間違いを見つけて、彼らは「間違っている」から自分は認めないのだとするのは、自己が特定の立ち位置にいるということを認めたくない、自分は中立的な立場にいるのだとしたいからなのでしょう。