ドナドナとホロコースト

しつこいようだが、再びウィキペディアから

歌詞では、牧場から市場へ売られていくかわいそうな子牛を歌っている。
人間の子供を子牛に見立てた反戦歌という説もある。これに関して、特にユダヤ人がナチスによって強制収容所に連行されていくときの様子を歌った歌という説もある。ユダヤ人は、彼らが信仰している(ユダヤ教の)神のことを「アドナイ」(主よ)と呼ぶ。その「アドナイ」をナチス当局に悟られないように、「ドナ」と短く縮めて表現して、戦争の不条理を神に嘆きつつ、悲しみのうちに「主よ、主よ」と歌ったものと解される。

ドナドナ - Wikipedia

ところで、ウィキペディアによると、

1938年に Dona Dona として作られたイディッシュ語の歌で、ベラルーシ生まれのユダヤ人ショロム・セクンダ (Sholom Secunda) 作曲、ウクライナ生まれのユダヤ人アーロン・ゼイトリン (Aaron Zeitlin) 原作詞である。1940年-1941年のイディッシュ語ミュージカル Esterke に使われた。

とある。既に1938年に「Dona Dona」という歌であったということになる。


一方、
ドナドナの謎 歌詞の解説・ルーツ・作詞者の謎など 2-2
では、『離散するユダヤ人』(小岸 昭著/岩波新書)によると、

 その作者が拠り所としていた情報源は、あるドイツのフォークグループが出しているCDの解説書で、それによると「ドナドナ」はワルシャワ・ゲットーの詩人イツハク・カツェネルソンが作詞者で、彼の妻と二人の息子が1942年絶滅収容所に連れられた時の印象に基づいて書かれた歌であるとのことです。

とあり、ユダヤ人が詩を書いたという点では同じだが、書いた人が違う。



Donna Donna - Wikipedia, the free encyclopedia
英字版ウィキペディアによると、この歌はミュージカル「Esterke」(1940-1941)のために書かれた(日本語版では1938年とあるが、それについては書かれていない)。イディッシュ語で詩を書いたのは、日本語版にある通りアーロン・ゼイトリン。それを英語に翻訳したのは作曲したショロム・セクンダ。詩の内容は大筋では現在の詩と同じ。イディッシュ語の詩はわからないけれど、これもほぼ同じなんだろう。英語に翻訳したのがいつかはわからないが、この時は人気が出なかったそうで、Arthur KevessとTeddi Schwartzによって1956年に翻訳された歌詞が有名になった。それらの詩もここに載っている。ゼイトリンはベラルーシ生まれで1939年にニューヨークに移住。セクンダはウクライナ生まれでアメリカで教育を受け、ニューヨークのイディッシュ劇場の「big four」と呼ばれる作曲家だった。


これのどこにイツハク・カツェネルソンが入り込む余地があるのかわからない(もしかしてドイツ語版の歌詞を作詞したということか?【訂正】そういうことではないらしい)

1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家[要出典]は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。

ホロコースト - Wikipedia


この1938年11月頃がホロコーストのはじまりとされているそうで、1938年に「ドナドナ」が作られたとするなら、微妙だけれど歌の方が先ではないかと思う。少なくとも1940年にはミュージカルで使われていたので、それはカツェネルソンが作詞したという1942年頃よりも前のことになる。


ホロコーストについては慎重に書かなければならないので断定することは控えるけれど、「ドナドナ」とホロコーストには直接の関係がない可能性が高いと思いますね(間接的にはあるかもしれない)。あるとしたらドイツ語の歌詞がそうである可能性があるけれど詳細がわからないので何ともいえない。【訂正】そういうことではないらしい。下の記事を参照。