トンデモが好きだからトンデモを批判する

科学もムーも学研 - 「で、みちアキはどうするの?」


(注:みちアキさんは「ニセ科学」について書いているけれど「ニセ科学」という言葉自体に批判的なニュアンスが込められているので、ここでは「トンデモ」について。とはいえ本来は「トンデモ本」とは「著者の意図とは異なる視点から楽しむことができる本」という意味だったんだけれど、そこはスルーの方向で。ちなみに俺は「ニセ科学」も「トンデモ」と同じで、本来の意味とは違う用法で使われる運命にあると思ってる)



俺がトンデモを批判する場合は、まさにみちアキさんが指摘するような理由です。それについては既に書いたことがある。
俺がトンデモを批判する理由 - 国家鮟鱇


俺はトンデモが大好きなんですね。ここで言うトンデモとは、現代の科学では認められていないもの、すなわち実験による証明がなされていなかったり、証拠が見つけられていなかったりするもの。そんなものは世の中に山ほどあると思いますね。科学で解明されていることなど氷山の一角。


現代の科学で認められていないからといって間違っているとは限らない。しかし、科学で認められていない以上、科学的に正しいということもできない。そんなグレーゾーンが大好きなんですね。


で、そんな未知の領域がいっぱい、いっぱいあるのに、なんで既に「間違いであることがほぼ確かなもの」を引っ張り続けるのか?そんなものは捨て去って、もっと魅力的なものに関心を持とうよと。


俺の主な関心は自然科学ではなくて、日本史なんだけれど、古臭い、手垢のついた、既に説得力のある批判がなされているもの、たとえば「天智・天武非兄弟説」だとか「聖徳太子怨霊説」だとか、「源義経ジンギスカン説」だとか「天海=明智光秀説」だとか「上杉謙信女性説」だとか、なんでそんなものをいつまでも執念深くやっているんだと。いや、これらの説だって一捻りすれば新しい展開が始まる可能性があるかもと思うけれど、そういうことすらやらない。ただ屁理屈をこねまわすだけ。


それじゃつまらないんですよ。もっと良質のトンデモを!間違いであることがほぼ明らかになったなら、きっぱり捨て去る決断を!それが俺の願い。


みちアキさんがどういう積もりでこの記事を書いたのか俺にはわかりかねる(おそらく批判のつもりなんだろう)けれど、トンデモを愛するが故にトンデモを批判する。俺のスタンスはそういうことだし、他の人がそういうスタンスでトンデモを批判していると見られるときには不快感が起きない。


俺が不快感を覚えるトンデモ批判・ニセ科学批判は、非科学に対する憎悪・嫌悪・侮辱があからさまなもの。トンデモに対する愛がない。(あとこれは批判じゃないけれど「ロマンがあっていいですね」みたいな上から目線の無責任な反応も好きじゃない)。


こういうスタンスが大多数の共通認識になっているかというと、そうではないだろうとは思う。でも、共感してくれる人も少なくないだろうと思ってます。