神武東征伝説と「幻の大和国」(その4)

「神話」は世界の成り立ちを述べたものであり「日本神話」もその例外ではない。イザナギイザナミの「国産み神話」の原型は「男女の二神が世界のありとあらゆる国土を産んだ」という話であって、日本列島に限定された話になったのは、ずっと後のことであるはずだ、というのが俺の考え。それは「国産み神話」に限ったことではなく「神武東征伝説」もそうであった可能性がある。


しかし、その前に、「出雲神話」について考えてみる。記紀に描かれる「出雲神話」とは、高天原を追放されたスサノオヤマタノオロチを退治した話、スサノオの子(または子孫)のオオクニヌシ葦原中国の国づくりをした話、そして天孫に国譲りしたという話。

この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。

出雲国 - Wikipedia

というような解釈が一般的なものだろう。つまり「史実を反映している」ということ。


果たしてそうなのか?俺はそうは考えない。何度でも書くが、俺は「神話は神話として解釈するべき」だと考えている。


日本(日本だけではないかもしれないが)の神話研究は、実際にどうだったかは実のところ俺は詳しくないけれど、よく言われているところによると、近代以前あるいは戦前までは「神話は事実」だという考え(皇国史観)があって、近代以降あるいは戦後になって「神話は創作」という考え方が主流となっていった。そして、現在はそういった「神話の否定」を批判する人達がいるということらしい。そして彼らは「神話は史実を反映していない」などという考えは、いわゆる「進歩的な考え」であり、それは間違っていると考えているらしい。このあたり非常にねじれてやっかいなことになっている。


確かに神話について「権力者の都合の良いように改竄されている」とか主張して、神話の価値を否定しようとしている人達は存在する。だが「神話を神話として解釈する」ことは別に神話を否定しようとしているわけではない。冷静になって考えてみればわかることだが、これが理解できない人が多いのというのは、つまり神話研究においては未だに冷静な判断が出来ない人が多いということなんだろう。


「神話を神話として解釈する」側から見ると、むしろ「史実を反映している」とする側の方が神話を否定しているのだと言うことだってできる。たとえば「国譲り」というのは文字通り「国譲り」なのであって、ヤマト王権が出雲地方を支配下に置いたなどという話ではないのだ。


(つづく)