同時代人にもわからないことが現代人にわかるのか?

歴史の話題で、時々見かける話に「タイムマシンでも発明されない限り真相はわからない」みたいのがある。


けれど、よくよく考えてみれば、それって破損した歴史史料が元々どんな形だったのかとか、誰々の父親は誰だったのかとか、そういうことになら適用できるかもしれないけれど(それだって現場にアクセスできなければ不可能だと思うけれど)、人の内面に関わることは、その時代に行けばわかるかといえば、それは難しいんじゃないかと思う。せいぜい判断するのに必要な材料を得ることが可能ってことに過ぎないのではないか。


というか、同時代のことだって、それはわからない。例えば芸能人の離婚理由について芸能評論家があれこれ言うけれど、本当にそうなのかはわからないし、疑わしいと思うものもいっぱいある。あるいは犯罪者の真の動機について、元警官だとか元検事だとか心理学の教授とかがあれこれ言っているけれど、それで本当のことがわかるのかといえばあやしい。あるいは、組閣で誰々を起用したのはかくかくしかじかの思惑があるからだなんて政治評論家が言うけれど信用できないこともしばしばある。あるいは政府の政策は何々が目的だなんて著名な学者が言ったとしても、それはその人のイデオロギーからすればそう見えてしまうのかもしれないけれど、そういうつもりでやってるわけじゃないだろなんて思うこともよくある。だからといって当人が理由を述べたからといって、それが本音だとも限らない。そして、それらのことについて、それぞれの専門家が侃々諤々の議論をしている。


現代という情報の溢れた時代において、しかも同時代であるというのに、しかもそれぞれの専門家が論議しているというのに真相はこれだと断言することが難しいことがいっぱいあるというのに、情報量の少ない、そして当人に確かめる術もない過去の出来事において、歴史家にどれだけのことがわかるのであろうか?細部になればなるほど不確実性が増すのではないか?そして、不確実な細部を集合させて(現実と大きく乖離しない範囲で)再構成すれば、一見もっともらしい歴史叙述ができるけれども、それが真相とどの程度合致しているかといえば怪しげなのもありそう。しかし繰り返すが、もっともらしいものは一応出来上がる。


一方、わからないものはわからないとして棚上げして、確実性の高いものだけを研究対象にするというやり方もあるだろう(もっとも表面上は棚上げしているけれど、ある程度の目星はつけている場合もあるだろうけれど)。


個人的には後者の方に好感を持てるんだけれど、それだと歴史叙述に限界がある場合もあるのかもしれない。よくわからないけれど。