夫婦別姓問題に見る「単一の公共」

夫婦別姓に反対する理由として家庭が崩壊するというものがある。これは逆に言えば、家庭崩壊を食い止める役割を政府に期待しているということだ。


夫婦別姓に賛成する理由には様々なものがあるのだろうが、これも要するに自分達の要求を実現するのに政府を頼っているということだ。


つまり、どちらにせよ、政府に大きな役割を期待しているということだ。


本来、名字というものは、上から与えられたものではなく、自ら名乗ったものであり、何を名乗ろうが自由なはずだ。夫婦が同じ名字を名乗るのか、別の名字を名乗るのかも、慣習としてそうなったということであり、法律に定められているからそうしたというものではないはずだ。


それがいつの間にか「お上」の管理するものとなってしまった。考えられる理由の一つは、「名字」と「姓」が混同されたということだろう。「姓」は朝廷との関係を示すものであり、みだりに変えることはできない(という建前になっているが実際はそうでもない。特に戦国時代以降は出自が明らかでない者が名乗ることは良くあった。とはいえ、そこには偽系図などの虚構ではあれ根拠が必要であったということはできるのではないかと思う)。


明治維新は王政復古ということで、当初は古代の「姓」を復活させようと目論んだ形跡がある。しかし、源平藤橘などでは同姓が多すぎて混乱してしまうので早々に挫折して、その代わりに「名字」に「姓」の役割を付与することになったということなんだろう。それで、江戸時代には例えば徳川氏が朝廷から官位を授与されるときには本姓の「源」であったのが、以降は、官職に就くときの辞令なども本来の本姓ではなく、名字が本姓として使われることになっていったんだろう。


そういうわけで、日常的に使用している「名字」と、公的に使用する「姓」が統一されてしまったということなんだろうと思う。ところで、ここでいう「公的」というのは、対朝廷・対政府のことである。そして、それを「公的」と呼ぶなら、名字は私的なものと呼べるかもしれないが、もちろん、共同体内で使用するものなのだから「公共性」を有しているのであって、全く自由なものというわけではない。


だから、「公共」といっても決して一つしかないわけではなくて、複数の「公共」が存在するはずなのだけれど、現代においては、「単一の公共」しか存在しないかのような考えに陥りやすくなっていると感じる。そこで、小さな共同体である家族の問題にまで、政府の介入を期待するということになるのだろう。


もちろん、「公的な呼称」すなわち、役所等に申請するときの夫婦同姓を夫婦別姓に改めるべきという意見も意見としては有り得るけれど、そうではなく、対政府という公的な関係とは別の「公共」の問題にまで政府が介入することを当然のように考えている。というか両者の区別がついていないようにみられる点で反対派も賛成派も、右派も左派も同じだと感じる(左の場合はそう考えるのは不思議なことじゃないけれど)。


で、これは何も夫婦別姓問題に限ったことじゃなくて、たとえば数年前の「女性は産む機械」発言の時の議論で、国益としての少子化対策と、家族や一族の利益のために子を産むことが強制されるということの区別がついてない主張が、対立する意見のどちら側にも多くあったという時にも感じたこと。