江戸時代のストーカー?

 別れた後も元恋人などに付きまとわれる「ストーカー被害」は、昔からあった。群馬県太田市徳川町の縁切寺満徳寺資料館で展示している「執心切れ一札」と呼ばれる文書は、男女の別れの難しさを物語っている。

 展示史料は、「執心がましき儀御座なく候」という関係解消を明言する文言を含む男女の念書で、江戸時代後期の天保年間(1830〜44)から明治32(1899)年までの東毛地域を中心とした25点。

 相互に交わした文書のほか、片方から一方的に出されたものもある。慰謝料の支払いが明記された文書も複数あり、後難を避けたい方が払ったと見られる。

 交際していた2人の個人名だけが署名された文書がある一方、家族のほか、町役人や若衆組といった公的立場の人が「世話人」として名を連ねたケースも多い。

 高木侃(ただし)館長は「離婚は社会的に公示され、周知されるが、未婚の場合はそうはいかない。公的な文書を交わすことで、交際相手から後日被害を受けることを未然に防ごうとしたとみられる」と話している。

asahi.com(朝日新聞社):江戸時代にもストーカー、「縁切り」通告文書展示 群馬 - 社会


見出しは「江戸時代にもストーカー、「縁切り」通告文書展示」だけれど、これは果たしてストーカーに関する文書なのか?


詳細がわからないけれど、少なくとも記事の内容を見る限りでは、これがストーカーのことだと言い切ることはできない。単に結婚を前提としてお付き合いしていたけれど、何らかの理由で結婚が取りやめになったので、両者納得の上で今後一切この件で揉めないという約束を交わしたってだけのようにも思える。そういうのは普通ストーカーとは呼ばないですよね。