フーコーとか知らないけれど

それってリバタリアンと何か違うのか - finalventの日記
経由
浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?
さらに元記事
週刊ダイヤモンド/続・憂国呆談

しかし、すぐキレると言われる最近の子供を見てもわかるように、幸か不幸かディシプリンはもはや機能不全に陥り、いまや、主体化されない人間たち、バラバラのボディ・パーツの集合、一瞬一瞬で移ろう解離した感覚の束みたいな人間たちが、アノミーに近い状態で浮遊している。となると、情報ネットワークでそれらを直接に監視/管理するほかないということになり、これがコントロールと呼ばれるわけです。子供がキレるというなら、ディシプリンによってモラルを内面化するのはもう無理だから、金属探知機でナイフを取り上げろ、あるいはもっと広く宮台さんが言われたような意味でのアーキテクチュラルな枠組みの中に囲い込んで、本人が快楽を求めて行動することが自ずと秩序に同調するような形にしておけ、と。ともあれ、ディシプリンがうまくいかなくなればコントロールしかないということになり、それがセキュリティ神話と結びついて、自然現象から社会現象に至るまですべてを情報ネットワークでコントロールしよう、監視し管理しようということになるんですね。


この点について。いつものように『保守主義-夢と現実』(ロバート・ニスベット著 宮沢克・谷川昌幸訳 昭和堂)より引用。

 保守主義者による自由主義批判の核心は、自由主義は要するに全体主義のための「おとりのヤギ」であるという点にある。近代人のなかではとりわけバークからドーソン、エリオット、カークに至る人々がそのように考えてきた。社会内の伝統的権威や役割から人々を解放するという不断の努力を通して、自由主義は社会構造を弱体化し、「大衆型」人間の増加をうながし、そしてこれによって、出番を伺っていた全体主義者たちを招き入れたというわけだ。エリオットによれば、「人々の社会慣習を破壊することによって」、「彼らの自然な集団意識を個々の構成要素に解消することによって、……自由主義はそれ自身を否定するものへの道を準備することになる。」またクリストファ・ドーソンも、ムッソリーニの全盛期に、イタリア・ファシズムは基本的には近代自由主義が生みだしたものだと断定している。


なぜ保守主義者が中間集団を重視するのかというと、

保守主義の立場からすれば、トクヴィルがこの上なく雄弁に語っているように、中間団体は個人と個人の間の関係を媒介し育成するという点で貴重だし、また国家権力の衝撃をやわらげる装置としても貴重である。なぜなら、その存在それ自体と、それが構成員からえている忠誠とによって、中間団体は、社会民主主義的国家の魅惑的権力とその平等信仰を、相殺するからである。

要するに、中間共同体(あるいは伝統や慣習といったもの)は個人と国家(巨大な中央集権的権力)の間のクッションとしての役割があるということ。これが保守の考え(日本のいわゆる「保守」がこれを重視しているかは知らないけれど)。


(ところで、浅田彰氏は「ディシプリンがうまくいかなくなれば」と言っているけれど、いったい誰が何をもってディシプリンがうまくいかなくなったと評価するのだろうか?実のところここに大きな問題があるんじゃないかと思われ)


あと、

SMというのはまさに法に対する侵犯でめちゃくちゃなことをやっているように思えるけれど、それはヨーロッパのキリスト教国でのイメージ、まさにカント/サド図式にそったイメージでしかない。そういう禁止から解放されたところでは、好き放題やれるわけだけれど、フィスト・ファックとかもやっているわけだから、本当に好き放題やったら死んじゃう(笑)、むしろ、だからこそ、非常に繊細な自他への配慮、苦痛を与えることがお互いにとって快楽になるようなある種の技術というのが必要になるわけです。たぶん、フーコーは、そういう現代のアメリカと古代のギリシア・ローマを結びつけながら、自律――しかも他律(法)の内面化ではない自律を考えようとしていたのではないか。

とあるけれど、それを言うなら「子供がキレるのも自律」だと言うことができるんじゃないだろうか?他人から見れば無茶苦茶に見えるかもしれないけれど、そこには規律が全くないと言えるのか?なぜ「子供がキレる」のは自律じゃなくてフーコーのSMは自律だと言えるのか?そこには評価基準が存在しているのではないのか?その評価基準はどこからきたのか?そういうことに(ポストモダン界の著名人である浅田彰氏にこいうのもなんだけれど)無自覚なんじゃないかと思えてくるんだけれど、どうなんでしょうね?


(追記)
元記事読むと宮台氏がそのことに触れていることに書いてから気付いた。

いまや多くの犯罪は「我々の物差し」からすると「感情が壊れた人々」によって行なわれるので、理解できません。しかし「感情が壊れている」と判断する「我々の物差し」も先験的ではなく経験的なものです。既存の社会性を前提にした投射(プロジェクション)です。