これも立派な市民運動の成果なのでは?

原発事故以来、色々なことを考えているのだが、その一つが「なぜ日本では民意がなかなか反映されないのだろう」ということ。泊原発の再稼働容認が典型的な例。これだけ多くの人が反対しているのにも関らず、必要だったはずのストレステストもなく、原子力安全委員会の形だけの二重チェック(参照)で北海道知事の再稼働容認となった。

Life is beautiful: なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか?


ところで、最近大きな話題になったこのニュース
asahi.com(朝日新聞社):送り火中止、京都市長「被災者に申し訳ない」 - 社会

一連の問題で、市には11日までに約2千件の苦情や批判の声が殺到。今回の決定を受け、12日夜までに130件の声が寄せられた。「断念して安心した」という声が多く、中止を批判する声は少なかったという。

市民の苦情や批判によって中止されたんだから、これは立派な市民運動の成果ではないのだろうか?しかし、そういう意見は聞かない(探せばあるかもしれないが)。


上の記事でも、この件については触れていない。なぜか?


その1、この騒ぎを知らなかった。失念していた。
その2、知っていたけれどスルーした
その3、これは「市民運動」ではないという認識をもっている


さてどれでしょう?俺は3番目だと思う。あくまで推測に過ぎないが、これは「間違った要求」であり「間違った要求」をするものは市民運動ではないという認識を持っているのではなかろうかと思う。では「正しい要求」とは何か?それは結局、前の記事に書いた「一般意思」に基づく要求ということになるんだと思う。


では、それが「一般意思」によるものか、そうでないかを誰が決めるのか?そこが大問題なのだ。