日本の市民運動と一般意思

Life is beautiful: なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか?


この「Life is beautiful」はブログはlivedoor Readerで購読者数が約1万もあるという超有名ブログだ。だからその存在は以前から知っていたが、俺はほとんど関心がなかった(理系の記事がほとんどだから)。たまに記事を見ることはあったけれど特に印象に残っていない。


注目し始めたのは、
Life is beautiful: 「空気が読める日本人」と「言論の不自由」と
がきっかけ。「空気」を否定的に語る言説は、日本の知識階級において人気があり、評判も高いように思われる。しかし、俺はそういう言説に全く同意できないのである(それと今回の件とはあまり関係ないけれど)。


さて、今回の記事のテーマはタイトルにあるように、『なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか?』ということ。


はてなブックマークに興味深いコメントがあった。

gremor
昔から百姓一揆とかあったじゃん。市民運動がカッコ悪いと思われるのは、戦後から近年までのこういった活動は内容がキチガイじみてたから、或いは自己の利益のためのものが大半だったからじゃないの?

「自己の利益のためのものが大半だったから」格好ワルイのだと。これは重要なヒントを与えてくれる。ただし、物は言い様だ。逆の言い方も可能なのだ。ここがややこしい。


日本における市民運動は「自己の利益のため」ではなく「市民全体」の代表者として行動しているように見える。


「市民」の中には運動の主旨に賛成だが行動しないという人もいるだろうけれど、主旨自体に否定的な人もいる。市民の意思が一つしかないなんてことはない。当然の話だ。ところがそういう反対の意思は無視される。あるいは最近では「御用市民」などとも呼ばれたりするらしい。


こういう考え方はルソーの「一般意思」に通じるものがあるように思われる。
一般意思 とは - コトバンク

百科事典マイペディアの解説
J.J.ルソーの用語。この語はまずディドロの《百科全書》において,個人の特殊意思と区別され全人類の一般利益を代表して自然法を基礎づけるものとされたが,ルソーの《社会契約論》において,各個人が自己を全面譲渡する〈契約〉によって成立する単一の人格としての国家の公的な意思とされ,個人の特殊意思の総和としての全体意思とは次元を異にしたこの一般意思の表現が法であるとされた。

「単一の人格としての国家の公的な意思」が一般意思だ。すなわち一般意思は単一のものである。それは個人個人の意思(特殊意思)を合計したものではない。

まとめて言うと、ルソーの「一般意思」とは彼特有の・かなり特殊な概念であり、投票の多数とか人民自身の納得という要素とは本質的に無縁である。仮に私が一般意思の命ずるところを間違いなく知ることができるのであれば、人民の大多数が反対し、「人民の多くはそう思っている」ということに誰一人納得することができなくとも、それを実行し、すべての人民を強制的に服従させることが正義にかなっていることになる。したがってそれは、「人民の本当の意思」を知っていると僭称する勢力の無制限な実力の行使を正当化することにつながっているというのが、たとえばアイザイア・バーリンの批判であった

「一般意思」 (おおやにき)


日本の「市民運動」における「市民の意思」はこのルソーの一般意思に非常に近いものを感じる。もちろん原発に対する不信等、市民運動で主張されることには多くの市民が実際に感じているものと一致する場合もあるかもしれないけれども、その場合においてすら市民運動における「市民の意思」と称されるものは、そういった市民の意思の総和とは別のところからきているように感じられる。


それが日本人が市民運動から距離を置く理由ではないだろうか。