民主主義の鬼子

網野善彦氏はかつて「つくる会」の歴史教科書は戦後歴史学の鬼子だと書いた。網野氏が「つくる会」を批判したと単純に受け取る人もいるだろうけれど、「鬼子」といえども血の繋がりがあるのであって、批判対象は「つくる会」だけではなく戦後歴史学も含んでいるのである。


ところで「朝鮮民主主義人民共和国」について。

 北朝鮮政府は、朝鮮民族過半数からの支持を得るに至っておらず、民主主義的傾向もかなり弱く、事実上の元首の立場は世襲が原則である。「北朝鮮専制主義王国」の方が余程実態に即しているだろう。

実は今でも、多くの日本人が北朝鮮の民主主義への幻想を捨てきれていない。 - gurenekoの日記


北朝鮮は民主主義国ではなく王国であるとして民主主義と切り離すべきだということだろう。しかし、俺は「北朝鮮は民主主義の鬼子」だと考えるべきだと思う。


そもそも王政は専制的なものではなくて分権的なものだった。それがやがて中央集権化して「絶対王政」となった。絶対王政の正当性の理論的根拠として当初は王権神授説が採用されたが後に社会契約論が登場した。
絶対王政 - Wikipedia


ここで重要なのはホッブズの『リヴァイアサン』。

ホッブズは人間の自然状態を万人の万人に対する闘争(ラテン語: bellum omnium contra omnes, 英語: the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(この場合は残部議会であり、この政府を指して『リヴァイアサン』と言っている。右の口絵に描かれている王冠を被った『リヴァイアサン』は政府に対して自らの自然権を譲渡した人々によって構成されている)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。この理論は臣民(ここで言う臣民は、国家権力の行使を受ける客体としての人民)の自由が主権者の命令である法の沈黙する領域に限定されてしまい、主権者に対する臣民の抵抗権が認められない。

リヴァイアサン (ホッブズ) - Wikipedia


これは「絶対王政を合理化する理論」であるが、

ホッブズによれば国家はリヴァイアサンと呼ばれる。複数の行為者から構成されていながらも人格の単一性をもち、この人格を代表するのが主権者であり、それ以外は臣民となる。主権者が保有する主権は絶対的なものであり、一人で主権者となる政治体制は君主制、成員全体が主権者であるならば民主制、一部の人びとならば貴族制となる。

とあるように「王」を「人民」に置き換えればそのまま民主主義となる。


人民が絶対的な主権を持つ「専制主義国家」が民主主義国ということになるが、ここで問題になるのは、単に人民の意志を反映するだけでは衆愚政治に陥るという危険。そこで先に書いたルソーの「一般意思」なるものが重要な意味を持ってくる。

百科事典マイペディアの解説

J.J.ルソーの用語。この語はまずディドロの《百科全書》において,個人の特殊意思と区別され全人類の一般利益を代表して自然法を基礎づけるものとされたが,ルソーの《社会契約論》において,各個人が自己を全面譲渡する〈契約〉によって成立する単一の人格としての国家の公的な意思とされ,個人の特殊意思の総和としての全体意思とは次元を異にしたこの一般意思の表現が法であるとされた。

一般意思 とは - コトバンク


「一般意思」が何であるかをわかっていれば、いちいち人民の意思を確認する必要など無い。というかそんなことをしても、一般人民には「真の人民の意思」はわからないのであり、「真の人民の意思」がわかる人の手に委ねて、人民はその「真の人民の意思」を実現すべく、「真の人民の意思」がわかる指導者に従うことによって「真の民主主義」へ到達できるのである…


かくしてここに一部の者に委ねられた専制主義国家が登場することになる。専制者はあくまで人民であり、指導者は「人民の一般意思」に忠実だという理屈なので、指導者に逆らうことは、すなわち人民に逆らうことであり人民の敵ということになる。



さて、このようなことは何も北朝鮮にだけあるものではない。ソ連民主集中制も同様だ。民主集中制日本共産党も採用している。
民主集中制 - Wikipedia


民主集中制への批判に対しては、

・本来は民主集中制は問題無いが、スターリン主義民主集中制を名目に独裁を行ったため、誤解されている。
・「民主集中制」も他の民主制度と同様に1種類ではない。民主集中制ならば「全て民主的」とか「全て独裁」という事はなく、少数意見の尊重など、党や時期ごとの実際の運用を含めて評価すべき。

などという反論があるみたいだ。これはある程度はその通りで、民主主義国家には民主集中制とは呼ばなくても、民主集中制的なものは多い。


民主主義は一方では衆愚政治に陥る危険があり、一方ではこのように一部の者による専制への危険がある。そのどちらにもならないようにするのが肝心なのであり、北朝鮮を民主主義と無縁だと切り捨てることは、現実から目をそらすことになりかねないと俺は思ってる。