天孫降臨神話の真実(その6)

天孫降臨神話の真実(その5)のつづき。


『アマテラスの誕生』(溝口睦子 岩波新書)より

ここで「高天原神話」(「ウケヒ神話」と「天岩屋戸神話」)の真の主役は誰かという、おそらく突飛と思われるであろう問題を提起してみたい。というのは私は、「高天原神話」の真の主役は、スサノオではないかと考えているからである。従来はアマテラスとスサノオ二神のうち、脚光を浴びてきたのはもっぱらアマテラスだった。しかしこの神話で、アマテラスが積極的に何らかの行動を起こしたことは一度もない。起こしたとしても。それは受け身でやむなくやっているにすぎない。

暴虐なために高天原を追放され根の国に赴く途中でヤマタノオロチを退治して姫と結婚するという一連のストーリーの主役はスサノオであり、「ウケヒ神話」と「天岩屋戸神話」はこのスサノオを主人公とした物語の中に組み込まれたものだという意味でならその通りである(溝口氏の言いたいことは多分これとは少し違うようにも感じられるが)。


そんなことは当たり前だ


なんてことを言うと、つい最近はてなブックマークの人気記事になっていたアーサー・C・クラークの格言だという「3.良いアイデアだと、私はずっと言っていた。」みたいになってしまうけれど、実際、そんなことは当然気付かなければならないことだ。


しかし、溝口氏の言うように、これが「突飛と思われるであろう問題」なのだとしたら、日本の神話・歴史学はものすごく情けない状態にあると言っても過言ではない。


大体、この神話は典型的な貴種流離譚であり「末子成功譚」である。スサノオが主役なのは火を見るより明らかだ。


なんでこんなことに「真の主役」なんて言葉を用いなければならないのだ。普通に「主役」ではないか。


本当に情けない。


だが、「真の問題」は「スサノオが主役か」なんてことではない。そんなことは当たり前のことなのだ。


真の問題は「天岩屋戸神話」はこのスサノオを主役とした物語に必要ないものだということだ。


スサノヲが高天原を追放されるのには「高天原で暴れたから」という理由があれば十分なのだ。アマテラスが岩屋に籠もったという話は無くても何ら支障がないのだ。


※そもそもイザナギイザナミによって追放された身だから、高天原のエピソード自体が必要ないのだが。


したがって、なぜスサノヲの英雄物語に「天岩屋戸神話」が挿入されているのかというのが大問題なのだ。


溝口氏の本にはその点について

記紀神話の形成について、これを古代国家の成立過程や古代王権のあり方を反映したものとしてみようとする岡田・三宅両氏の考え方に、私はまったく賛成である。

とか

「天岩屋神話」は、最初地方豪族によて形成されたあと、歴史の進展のなかで部分的にその内容に変化が生じた。

とか

この神話に描かれたサルメノ君(アメノウズメ)の、おそらく冬至祭りに行われたであろう太陽呪術は、

とか書いてあるけれども、なぜスサノヲの英雄物語に「天岩屋戸神話」が挿入されているのかという問題に関する解答は皆無である。


要約すれば、
1.この神話の主役がスサノオであるということに気付かなければならない。
2.スサノヲを主役とする神話になぜ「天岩屋戸神話」が挿入されているのかという問題に気付かなければならない。
という二段階を経なければ「天岩屋戸神話」の真の形成過程について理解することは不可能だということだ。


スサノオが主役だということすら「突飛と思われるであろう問題」なのだとしたら、一体いつになったらそこにたどり着けるのかと途方に暮れてしまう。


そして、その解答に到達するにはさらなる難関が待ち構えている。


この問題の答は『日本書紀』や『古事記』をいくら懸命に考察したところで出てこないからだ。解答に到達するためには別のアプローチが必要なのだ。


(つづく)