ブラック企業と村八分

『ブラック企業と日本軍』(ワタミ化と東南アジア化) - ゴムホース大學


大変興味深い記事。ただし思うところがないでもない。日本の文字通りの意味での「村社会」はとっくに崩壊している。もちろん現在でも存続しているところは少なからずあるかもしれないけれど、人口比でみれば少数派だ。既に崩壊してしまったのに、その精神だけが生き続けるなんてことがあるだろうか?日本民族の生物学的なDNAにそれが刻まれてしまうなんてことがあるだろうか?俺は甚だ疑問に思う。だとすれば「村社会」が形を変えて現在も存続していて我々はそれに影響されているということになる。


次に、そもそも「村社会」とは何かということがある。いつも思うのだがこの手の議論は「個人対集団」という視点で語られやすい。個人主義者にとっては「国家」も「地域の習慣」も「家族」も「場の空気」も「個人」を束縛するものとしてひとくくりにされてしまう。


しかし我々は同時に複数の共同体に所属している。「村社会」で言えば悪名高い村八分は「村と個人」ではなく「村と家」の関係においてなされるものだろう。家長は村の掟に従わなければならないという同調圧力と同時に、家という共同体の利益を守る、という時に相反するものの間に立つことになる。そして家の利益を守り村の掟を破るという判断がなされた場合、村から八分にされるという報復を受けることになる。この場合、家族の成員の中に村の掟に従ってもいいじゃないかという人間がいたとしても、家が決めたことに従わなければならないという同調圧力が生じる。これは日本だけのことじゃないだろう。村じゃないけど「ロミオとジュリエット」なんかもそんな感じだし。


そういう社会では、個人に対して会社という共同体の「空気」に従わなければならないという同調圧力と同時に、家(独身者であっても家はある)を大切にしなければならないという同調圧力も同時にかかる。それが両立できない場合は多々ある。


そこで問題になるのは単なる同調圧力ではなく、会社と家の二つの同調圧力が対立している場合には会社の同調圧力に従うべきだという規範がどうして生まれてしまったのかということになるだろう。


そしてもう一つの問題が上に書いたように、過去にあったものではなくて現在も存続している「村社会」の源泉は何かということ。俺は「学校」がそれだと睨んでいる。明治になって公教育が誕生したとき「家」は必ずしもそれに好意的ではなかった。しかしやがて学校で勉強して知識を得ることが「家」にとっても利益になることだとわかり「家」よりも学業を優先させるようになっていった(それでも俺の祖父母の時代にはまだ勉強よりも家の手伝いみたいなことがあったと聞く)。戦後の高度成長期になって学業優先(というか学歴優先)はますますエスカレートしていき、そのような社会で育てば学校(というか同学年さらに同クラスあるいは同クラブ)という共同体が他の共同体と比較して圧倒的な存在感を持つ。その感覚が会社にも持ち込まれる。そして会社という共同体の利益(必ずしも経済でいうところの利益ではなく非効率な面も多々ある)を優先させれば一応(金銭的には)家にも利益がある(あった)。そういうこともあるのではないか?


あくまで俺の仮説だけれど、過去に存在した村社会よりも現代に生きている村社会の方が影響力が大きいだろうとは思う。