⇒柳田國男vs.フレイザー? - Living, Loving, Thinking
によると、『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』(佐野眞一)に以下の文章があるという。
岡が柳田に会ったのは、卒業論文を書く際、自分で翻訳して参考にしたフレイザーの『王制の呪的起源』の序文を柳田に書いてもらおうと考えていたためだった。岡は同じフレイザーの大著『金枝篇』*2も、東大新人会の佐野学*3から原書で借りてすでに読んでおり、穀霊である神聖王の殺害によって王権が更新されるというフレイザーの学説は、新興のエスノロジーを目指していた岡にとって新鮮な驚きだった。
ところが柳田は、岡の申し出を言下に拒否したばかりか、出版するなら妨害するというまでの強硬な態度に出て岡を驚かせた。柳田は前年の大正十二年、国際聯盟統治委員会の委員としてヨーロッパを歴訪中、ジュネーブで直接フレイザー自身と会っており、その学説を知悉していた。当時柳田は、フレイザーの学説を穀霊の王=天皇制とする解釈の立場をとっており、その限りでいえば、フレイザーの著作の翻訳出版は危険きわまりないものに映っていた。
フレイザー問題を極力避けようとする柳田の態度は戦後もつづき、昭和二十六年、『金枝篇』が岩波文庫から翻訳出版された際、訳者の永橋卓介が相談したときも、柳田は格別の関心を示さない素ぶりをとりつづけた。(pp.151-152)
どういうことなのかちょっと意味がわからない。
⇒JAIRO | 柳田国男と『金枝篇』(阿久津昌三)
より
柳田國男は、当時ロンドンに留学していた南方熊楠から社会人類学者J・G・フレーザーの情報を得て『金枝篇』を読み始めている。明治45(1912)4月22日付の佐々木喜善宛の書簡では『金枝篇』を紹介しているが、その後の柳田國男の南方熊楠宛の書簡では、次のようなフレーザーについてふれた箇所がある。
(1)御教示によりフレエザ−の「黄金の枝」第三版を買い入れ、このごろ夜分少しずつよみ始め候。なかなかひまのかかる事業に候が、日本ばかりと存じおり候いし風習の外国に多きを知り候ことは大なる愉快に候。(明治45年4月26日付)
柳田國男は、昭和25年(1950)の『民族学研究』の誌上で行われた石田英一郎、折口信夫との鼎談「民俗学から民族学へ-日本民俗学の足跡を顧みて-」のなかで、「陶酔するような気持ちで本を読んだのはフレーザーの『金枝篇』The Golden Boughだけ」であると語り、南方熊楠宛の柳田國男書簡はこの事実を明らかにするものである。
「柳田國男vs.フレイザー」というよりも「柳田國男vs.岡正雄」(あるいは「柳田國男vs.折口信夫)という背景がありそうな予感。
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