「田村麻呂の墓」位置特定か

「田村麻呂の墓」位置特定か 山科で地元考古学研究家 (京都新聞) - Yahoo!ニュース


田村麻呂の墓については2007年に西野山古墓が田村麻呂の墓であるとするニュースがあって話題になった。
asahi.com:坂上田村麻呂の墓所特定 京都の「西野山古墓」 - 文化一般 - 文化・芸能(2007年06月04日)


ウィキペディア

周辺が中臣氏の根拠地であることから、被葬者はその一族とされていたが、昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家が条理制研究から、同墓が坂上田村麻呂(758年〜811年)の墓である可能性を指摘していた。
平成19年(2007年)、京都大大学院文学研究科が清水寺縁起の弘仁2年(811年)10月17日付の太政官符表題の記述と当時の地図(条理図)を基にした山城国宇治郡山科地方図(東京大学蔵)とを照合することで坂上田村麻呂墓説を裏付けた。

西野山古墓 - Wikipedia
とあるように、これには先行研究があったのだが、それを当時報じたのは京都新聞だけと思われる。この地元考古学研究家というのが今回のニュース(これも京都新聞)で名前が出ている鳥居治夫氏。


それについては、
膏肓記 坂上田村麻呂の墓
の本文とコメントで論じられている。


西野山古墓の位置は「清水焼団地が造成されて地形が変わり、古墓の位置は長らく不明になっていた」。というのを俺はこの京都新聞の記事で初めて知った。


ウィキペディアの記事を見ると最初からそう書かれているけれど、「西野山古墓」の記事自体が2007年6月22日に立てられたもので、話題になっている頃には存在しなかったのであった。


で、ちょっと良くわからないのが記事に載せられている地図。「遺跡地図台帳(07年)による古墳の位置」というのが、当時俺が確認した「西野山古墓」の位置と異なる。その場所は地図に醍醐道とあるヘアピンカーブの先っちょで石標が立っている。
YA017 西野山古墓


ウィキペディアによると、これは

昭和60年(1985年)、地元ライオンズクラブが周辺道路際に「この付近西野山古墓」の石標を建立したのが唯一の痕跡である。

ということで、教育委員会が定めたものではないみたいだけれど、遺跡地図台帳の位置は元からそうだったのだろうか?それとも2007年に決められたものなのだろうか?



より大きな地図で 坂上田村麻呂墓 を表示


ところで記事には

 位置は、市の遺跡地図台帳(07年版)の表記からは200メートルほど北東にある。また平安京の南限で、羅城門があった九条大路を東に延長した地点にあたることも確認し、鳥居さんは平安京を守護する位置に埋葬された、とみている。

とある。


羅城門の位置は
MI004 羅城門遺址
に「北緯34度58分33.8秒」とある。


西野山古墓の座標は記事に掲載された地図では緯度が特定できないけれど、石標の座標は
YA017 西野山古墓
に「北緯34度58分30.7秒」とある。


「鳥居さんの研究による古墳の位置」とされる場所はそれより北にあり、むしろ石標の方が「羅城門があった九条大路を東に延長した地点」に近いように思われるが、詳細がわからないので何ともいえない。


「日本歴史」なら図書館にも置いてあるので今度確認したい。