⇒404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ弱者を救済せねばならないのか
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あなたのおかげで(極短時間で)いろいろ調べることができました。
およそ現代の文明国において、「弱者、救済すべき」というのは共通認識(common sense)となっているようだ。生活保護者を叩く人ですら、「あの者は弱者にあらず」という論法は使っても「そもそも弱者を救済すべきではない」とまでは言わない。
しかしそれを子どもに問われた時、あなたはどう答えるか?
答:共通認識だから
それ以上の説明が必要だろうか?しかし、それに納得しないのが「理性主義者」というものなのだろう。
「弱者を救済すべき」とは、五戒にも十戒にも書いていないのだ。「不救弱戒」もなければ「汝、弱者を救済を怠るべからず」もない。
代わりに書いてあるのは、「不偸盗戒」であり「汝、隣人の財産を欲するべからず」。私有財産の尊重なら、どちらにも書いてある。しかしご存知の通り弱者救済というのはこれに対する一種の破戒でもある。
確かにそういうことを考えてみる必要はあるかもしれない。「共通認識」は大昔からのものかもしれないし、最近出来たものかもしれない。
さらに調べてみると、驚いたことに現時点において日本語版Wikipediaには「弱者救済」という項目そのものがない(救済ならばある)。その代わり、見つけたのがこれ。
ハンムラビ法典 - Wikipedia - 弱者救済
「弱者救済」の代りに見つけたのが「ハンムラビ法典」ですか。それもありかもしれない。「船橋法典」を調べるよりは遥かに意味がある。
ただ、他にも調べるべきものはたくさんありますよね。俺が最初に調べたのは、
⇒救貧法 - Wikipedia
次に
⇒布施 - Wikipedia
⇒ザカート - Wikipedia
⇒十分の一税 - Wikipedia
⇒相互扶助 - Wikipedia
など。あと、
⇒1.ボランティア活動の現状と沿革 ボランティアの沿革
「スピリチュアリズム」とあるのが引っかかるが、書いてあること自体はまともそう。
まず、わかるのは「人類の誕生以来、相互扶助そのものは世界各地に存在していた」ということ。理由を考えるのは歴史学というより人類学の領域になるだろう。
次に
救貧法が整備される前、特に宗教改革以前は、救貧は教会の役割であった。修道院やギルドなどで自発的に「貧しき人々」への救済が行われていた。キリスト教の伝統により、貧しいことは神の心にかなうこととされ、そうした人々に手を差し伸べることは善行であった。余裕のある者は、その寛大さを誇示するためにも積極的に自発的救貧を行った。また市民たちは競って貧民に文物を与え、それが市の誇りとされた。まずしい農民には安い地代で農地を提供することも多かった。
⇒救貧法 - Wikipedia
とある。「貧しき人々」を助けることは教会の役割とされてきた。教会の活動原資は「寄付」であろうから、現在の国家による福祉と同じように、集金と分配を担っていたということができるだろう。それ以外は現在でいうボランティアに当るだろう。
義務といえるのは教会への寄付だが、ただし自発的ということになっている。「葬式のお布施は気持ちですから」みたいなニュアンスがありそうな感じがする。教会の外の自発的救貧の動機は良くわからない。古くからの習慣がキリスト教と融合したとかかもしれない。このへんはもっと調べてみる必要がある。
次に注目すべきは、
宗教改革は、こうした救貧のありかたを一変させた。マルティン・ルターは1520年に発表した『ドイツ貴族に与える書』で「怠惰と貪欲は許されざる罪」であり、怠惰の原因として物乞いを排斥し、労働を「神聖な義務である」とした。都市が責任を持って『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱した。カルヴァンは『キリスト教綱要』でパウロの「働きたくない者は食べてはならない(新約聖書「テサロニケの信徒への手紙二」3章10節[1])」という句を支持し、無原則な救貧活動を批判した。こうした思想はイングランドにも持ち込まれ、囲い込みなどによって増えつつある貧民への視線は変わりつつあった。
逆に言えば宗教改革以前には「貧しければ誰でも救済の対象になった」ということでしょう。それは、おそらく救済の目的が貧者を救うことというよりも貧者を救う行為そのものにあったということではないかと思う。
それにしても「『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して」の起源の一つとして注目せざるを得ない。なお「托鉢」の項には
しかしながら、その一方で「食物を乞うだけの人」(pindola)は、在家の人々から卑俗な人々として見られていた。したがって、同一の行動形態であっても、出家者としての風格を備えていない者は、在家信者から供養されなかった。
⇒托鉢 - Wikipedia
という記述がある。
ところで、
日本国憲法 - 第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
生活保護はこれをよりどころとしているのだけど、ここにすら「すべて健康で文化的な最低限度以上の生活を営む国民は、最低限度以下の生活を営む国民を扶助する義務を要する」とまでは書かれていない。
だが、そもそも「憲法」とは、
国家権力の組織や権限、統治の根本規範(法)となる基本原理・原則を定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。
⇒憲法 - Wikipedia
であるからして…
ということを書こうとしたんだけれど、
⇒憲法に関するよくある誤解 - 院生兼務取締役の独り言(2009年01月07日)
という記事が既にdankogai氏に説明済であるからして、馬の耳に何とやら