⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ弱者を救済せねばならないのか
のブックマークコメントを読むと、「○○のため」式の答えが多くあり、それにスターが多く付いている。
この「○○のため」というのはどういう意味で使用されているのだろうか?
他者を助けるという行為は人間以外にも存在する。水に落ちて抜け出せなくなった子供の象を周囲の大人の象が救出するところを撮影した動画は有名だ。「彼ら」はなぜ子象を助けたのか?象に聞いても、
「わからないゾウ」
と答えるのではないだろうか。
(いやこれは既に「擬人化」しちゃっているわけで、もし象が人間の言葉を話せたとしても、象には人間が何を言っているのか理解できないだろうし、人間もまた象が何を言っているのか理解できないだろう)
というわけで、これは先に書いた『パラサイト・イヴ』論争にも関係する。
すなわち『パラサイト・イヴ』はミトコンドリアを「擬人化」していると批判されたわけだ。この批判はドーキンスの利己的遺伝子論に対する良くある誤解と関係している。
利己的遺伝子論は遺伝子が意思を持って振る舞うと言う意味ではない。
誤解の原因の一つに、一般に用いる「利己的」は道徳的判断を含むが、この場合の「利己的」とは純粋に行動上の評価であり道徳的な意味はない事が挙げられる[14]。例えば、あるオス鳥が仲間のために餌を運び続けたとする。その様子を見たメスが、その行動を気に入り、多くのメスがそのオスと交尾をした場合、人間の道徳心から見れば、結果はどうであれ餌を運び続けたのは利他的な行為だったと言うだろう。しかし遺伝子中心視点では、結果的に自己の繁殖率を高めているのだから、鳥の意図はどうであれ利己的な行動であったとみなす。
あたかも遺伝子自体が意志をもって利己的に振る舞うかのごとくイメージされることがあるが、誤読である。ドーキンスも誤読されることを予測して本書の中で「利己的な遺伝子」という表現は説明を簡単にするための比喩、あるいは群淘汰の対比に過ぎないと繰り返し強調している。 人間は赤の他人に手を貸すような真の利他性を見せることがある。だから利己的遺伝子と言う説明では不十分だと指摘もある[15]。ウィルソンは人間行動に遺伝子中心視点を遠慮無く当てはめたが、そのうえで人間は社会や文化の拘束も受けると認めている。ドーキンスも、人間を遺伝子視点だけで説明しようとするのは誤りであると述べる。一方人間の真の利他行為は社会的評価に結びついている適応的な行為であると見なす社会選択説もある。
で、元に戻って「○○のため」というのはどういう意味で使用しているのだろうか?この点を自覚しているのか、していないのかということが大いに気になる。