「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」という問題(その2)

なんでこんな主張が受け入れられるのか?


たとえば大学教授が「地球は平らだ」だと主張したとする。それに対して素人が「地球は丸い」と主張する。この場合、大学教授が間違っていて素人が正しいのは明らかだ。いくら学歴の高い人が「地球は平らだ」と主張しても間違いは間違いであり、大学教授が言うんだから正しいなんてことになはならない。発言した人が誰かを判断基準にして「地球は平らだ」と信じるのも、「地球は丸い」と主張した人の学歴が低いからといってそれを間違いだとするのも愚かなことだ。


おそらくは、この主張に同意する人はそのようなものを脳裏に浮かべているのだろう。


だが、ここで言っておかなければならないのは「地球は丸い」というのはあらかじめわかっていることだということだ。まあ科学に絶対はないから、もしかしたら本当に地球は平らで我々が間違っているのかもしれない。しかし現時点で圧倒的に正しいとされるのは「地球は丸い」の方だ。


しかし、世の中では圧倒的に正しいことだけが論じられているわけではない(なおこの場合の圧倒的に正しいとは「99.9999999…%正しい」という意味で、科学者の9割が正しいと考えているけれど1割が違うと考えているような程度では圧倒的とはいえない)。そんなケースは山ほどある。


そういうケースでたとえば超一流の科学者が、多数の持っている「常識」に反することを主張したとしたらどういう反応を示すべきだろうか?


これが科学の素養が疑われる普段からトンデモなことばっかり言ってるド素人の主張だとすれば、そんなものは無視してよいだろう。絶対に間違ってるなんてことは言えない。だが圧倒的に間違ってる可能性が高いし、絶対に間違っているとはいえないから検証すべきだなんてことを言い出したらきりがない。現実的にはそんな対応は不可能だ。


しかし超一流の科学者が主張しているのだとしたら、それと同じ対応をするべきではないだろう。もちろんその科学者の頭がおかしくなってしまった可能性もある。しかし超一流であるがゆえに平凡な人の気付かない常識を覆す発見をしたのかもしれない。それを簡単に常識に反するとして否定してしまってよいだろうか?俺はそうは思わない。したがって検証可能ならば慎重に検証する価値があると思うのである。


(もちろんその発見の価値が我々にとってどれだけ重要なものなのかを考える必要がある。検証に莫大な金が必要なのに、主張が正しかったとしても得られるものが僅かしかないようなものは、いくら正しい可能性があるといっても簡単に認めることはできないだろう)


そんなわけで、圧倒的に正しいことが明らかになっている場合を除けば、「誰が言っているか」は非常に重要なことなのである。


で、これは科学に限ったことではない。というか圧倒的に正しいということが明らかと判断できないケースは科学以外ではさらに多くなる。にもかかわらず「圧倒的に正しい」というか「絶対真理」だという確信のもとに異論を排除しようとすることが多々ある。ということは何回も指摘してきた。


というわけで「誰が言ったかではなく何を言ったか」という主張の背後にも、世の中には誰の目にも明らかな「絶対真理」があり、誰が言おうと絶対真理は絶対真理であるという思考が潜んでいるように思われるのである。